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2021年 12月

多様でありながら一つのことへ

2021/12/31

 

いろんなことを学び続けていくと、多様になっていく部分と、一緒になっていく部分とがあって、大事なことは一つになっていくように感じます。確かに一人ずつ違うということを保育の基盤に据えているのですが、それをお互いに認め合って、お互いに尊重し合うことを大事にしたいのですが、それがバラバラになってしまうのかというと、そうではなくて、支え合ったり、協力しあったり、同じ目的を見出そうとしたりと、何かのため連帯や調和を作り出すことに価値を見出します。

これは変化するものとしないものでもあって、あるいは不易と流行でもそうですし、なくなってしまうものとずっとあるものの違いかもしれません。私たちは必ずいつか死ぬのですが、生命のバトンは引き継がれてきたからこそ私がいるのですし、私はいつかいなくなっても生命の連鎖は無くなりません(で、あってほしいものですが)。テクノロジーの発達でできることが増えたように見えても、真善美など人間の感覚で大事にしたいものは変わらないような気もします。

そういう意味では、人の進化というものも、進化してよくなっていくものと、環境に適応してできなくなったこともあるので、一概に進化がいいのではなくて、どういう意味でいいのかを読み取っていくことが大事になります。その人にとって意味があることが、さらに他の人にとっても意味があるように、関係の中での意味を作り出していくことができるように、保育を創り出していきたいものです。その当事者はみなさんでもあります。子どもたちの育ちをみなさんと支えあうために、いろんな関係を作っていきましょう。たくさん、たくさん作っていきましょう。そしてその関係は、いろんな形をしている多様なものでしょうが、ただ、どれも信頼の関係になっていくはずです。七色に輝く多様なものかもしれませんが、きっと美しい関係になっていくでしょう。そんな新しい一年になるといいなと思います。

子どもにとっての故郷

2021/12/30

人は「くに」に帰省すると、普段いる場所が、「故郷ではないこと」に、いちいち気づかされることになります。仕事柄、心の安全基地だとか、心の拠り所だとかを考えることが多いので、つい自分の幼少期に過ごした場所と、千代田せいが保育園の場所との関係を比べてしまいます。帰るとか京に上るという言葉遣いからして、やはり「ふるさと」とは、遠くにありて思うものであり、幼少期に過ごした場所に実際に戻ってきてしまうと、東京という場所は、あくまでも「出かけていく先」のように感じてしまいます。

ところが子どもにとっては、生まれ育った東京が紛れもなく故郷であり、何かがあったら帰ってくる場所になります。子育ての最中にはあまり考えなくても済むことだったのですが、私のように、自身の来し方行く末の始点と終点が見えてくる歳になってくると、本来、魂が還るべき場所は、どこだったのか、迷ってしまう自分がいます。今は亡き父や母も、生まれ育った場所と、私たち姉兄弟を育てた場所が違います。日本人は、近代になると「お国=江戸時代までの藩」から出て、働く家庭が急増します。私たちの「ふるさと」のあり方も、戦前から戦後、そして現代にいたる約150年の間に、様変わりしてしまいました。

こんなことを考えるのも、年の瀬のせいかも知れません。保育の質が、人とを含む環境との「関係の発達」にあることを考えているうちに、親の働き方に大きな影響を与え続けている「資本主義の歴史」を考えなければならなくなり、それが「人類の子育ての歴史」とぶつかって、大きな波頭を立て始めたのが明治以降になるわけですが、その津波の影響は現代にもまだ続いていて、それはまた都市と故郷との関係とも重なっていることに気づきます。

すでに多くの子どもたちにとって、生まれ故郷が都市になっている時代において、「お国」の風景は田園ではなくて、ビル群や駅前の風景、あるいは遊んでいた公園が原風景になっていくのでしょう。故郷としての保育園。そのありようを改めて考え直してみたいと思います。

 

 

清らかにしておきたい理由は・・

2021/12/29

13世紀の「最寒三友図」(ウィキペディアより)

正月飾りには必ず松、竹、梅が描かれています。日本で「松竹梅」がめでたいことを表すようになったのは、色々な俗説があるようですが、松は平安時代から、竹は室町時代から、そして梅は江戸時代から祝い事で使われるようになったそうです。松も竹も寒い冬でも緑を保ち、花を咲かす梅に生命力や寿ぎ(ことほぎ)を感じたのでしょう。私の実家の襖絵も、宗の時代に活躍した絵師に始まると言われる「歳寒三友」が、芳水の作としての松竹梅が描かれています。色々なところに見られる松竹梅ですが、子どもたちに「本物」の梅を愛でる機会を逃さないようにしてあげようと思います。

おせち料理にしても、お祝い事で使う食材に吉祥を読み取るようになっていったことも、同じものを感じます。また新しい歳を迎えるにあたり、豊穣への感謝と共に、自然の畏敬の気持ちを新たにしていくところに、年末年始の清まっていく気持ちよさを感じます。改めて気持ちを清らかにしておきたいと願うのは、日本の文化として良質なものを感じるのですが、皆さんはいかがでしょうか。

植物の育ちや実りを、子どもの成長や教育に例えることが、日本では昔からあったそうです。自ら育つ力を持つものとしての、草花や樹木の生長を、子どもの発達の特徴になぞらえたものが多く見られます。秘めた命が形を変えて大きくなっていく姿は、種から芽が出て茎や幹が伸び、葉から蕾が出て花が咲く。それが実をつけて種に戻っていく。そうした変化は、生命と生態系の循環を表していることに、子育てや人生の循環を重ね合わせてきたのでしょう。

そこに何か、大事なもの、大いなるものがあるという感覚。改めてそれを迎え入れようとする姿勢。子どもたちに、その何かを感じてもらうことは難しいことですが、それでも、そのきっかけを、わいらんすい(3〜5歳)の子どもたちは、大掃除という活動で感じたようです。「自分達が1年間お世話になった部屋をきれいにしましょう。そうして神様を気持ちよくお迎えしましょう」。先生が、そう呼びかけて行った掃除を真剣にやっていた子どもたちの姿を見て、私は大掃除を行う大切な意味を思い出しました。

新しいものを迎え入れるために、きれいにするんだということ。新しいものが何かは、それぞれでしょうが、このウェルカムのために清らかにしておきたいということを、心や精神の「容れ物」にも当てはめているところを、大事にしていきたいと思ったのでした。

 

新年を迎えるにあたり、遊びの力に思いを寄せて

2021/12/28

本日で、今年の保育は終わりです。明日から年末年始の休園に入ります。1月4日(火)にお目にかかります。よいお年をお迎えください。

(以下、本日配布の「園だより」1月号 巻頭言より)

子どもたちが同時にいろいろなことをしているのが保育園です。一人ひとりが自分らしく生活しています。やりたいことがあって、それを実現させたくて取り組んでいます。その姿を見れば、多くの人は「遊んでいる」というでしょう。子どもが他愛もなくよく遊んでいる、と。その通りです。でも、その表現、言い方だけでは見落としてしまうことがたくさんあるのが、その「遊び」というものなのです。

赤ちゃんは自分が遊んでいると思っていません。大人の目から見ても、どこからどこまでが遊びだとはっきりしません。大きくなると子どもは自分が今遊んでいるのか、そうでないのかを区別できるようになります。いずれにしても遊びは生きるために必要な経験になっています。子どもから遊びを取り上げたらきっと死んでしまいますから。子どもの遊びを大切にできない社会はきっと滅びます。なぜなら、社会を形成するために必要な力の根っこを、この乳幼児期に育てているからです。根の生えない木が育つことはないように、社会を形成する力の根がなければ、社会は機能しなくなるでしょう。

では、社会を形成する力の根っことはなんでしょうか。それは遊びの中に見出せるのですが、一つ目は「対話する力」や「コミュニケーション力」です。遊んでいると頻繁にこれを使っています。二つ目は「他人と協力する力」や「集団の中で考える力」です。お楽しみ会の動画や劇遊びの中に、いっぱい見られましたね。三つ目が「実行機能」や「自己調整能力」です。自分の考えや目的のために自分をコントロールする力です。集団生活である社会は、他人との関係の中で自分を発揮し、また他者も生きるようなスキルを身につけていく必要があるからです。

これらの力を育んでいるのが保育園生活なのですが、個別の塾や教室では、これらのうち特定の力しか育てることができません。なぜなら、そこには本当の遊びがないからです。本当の、というのは「本心を自由にさらけ出せる場」の中で「地の自分」が育つ以外に、心の成長はないからです。本物の強い根っこは、自分の力で地面の土を握りしめます。ずんぐ、と地面を掴み取って張り巡らした心の根っこが、社会を形成する力になるのです。

しっかり遊んだ乳幼児期は、いくつもの非認知的スキルを育むことになります。その種類だけお伝えすると、誠実さ、情熱と粘り強さ、自制心、好奇心、考える力、楽観性、見通し力、感情のコントロール、共感する力、自信、今に熱中する力、気持ちの復元力、ストレスへの耐性・・こんないろんな力が遊びの中で育っています。さらに、社会への希望をもてる子どもになってもらいたいとも思います。ただ、そのためには大人の責任も大きいでしょう。本当に不思議なことですが、遊びこそ、大きな根っこが育つ土であり、地面なのです。改めて、これを守ってあげましょう。子どもから遊びを奪わないこと。このことを心に留めながら、新しい1年を迎えたいと思います。

園だより1月号

2021/12/28

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第三者評価者が園に来られて訪問調査

2021/12/27

東京都の場合、保育園は第三者による評価を受けることが義務化されています。すでに保護者の皆さんには先月11月中旬、「利用者アンケート」をお願いしました。今日27日は、それとは別に評価機関の評価者3人が保育園にやってきて、実際の保育を観察したり、職員からヒヤリングを行ったりする「訪問調査」をしていかれました。

皆さんに書いていただいたアンケート結果も含めて、本日までの審査結果は、来年2月25日に保育園に届くそうです。ずいぶん時間がかかりますね。皆さんから書いていただいたアンケート結果は第三者機関が把握しており、当園にはまだ届いていません。全体の審査結果を皆さんにお伝えするのは、来年になりますので、しばらくお待ちください。

今日の訪問調査の一人は、東京都の第三者評価の仕組みづくりに関わっている方で、「評価とは何か」ということに詳しい専門家です。評価者を養成する研修会の講師を努めている方でもあり、客観的に当園のことを評価していただけるので、とてもいい機会に恵まれたと思います。他のお二人の方も、保育園を運営していり園長先生でもあり、保育の質にとても詳しい方です。

当園の保育をさらに良くしていくために、第三者の専門的な目で分析していただき、私たちが気づいていない当園の強みや課題を明らかにしていただきたいと願っています。

さて、早いもので12月も最終盤になり、今日で年末の挨拶をさせていただいた方もいらっしゃいました。今月はお楽しみ会の動画配信やクリスマスデーなども無事に行うことができ、楽しい思い出を作ることもできました。

ちょっと心配なのは、健康管理です。寒さも一段と厳しくなってきました。25日に都内で初めてオミクロン株の市中感染が見つかりましたが、年末年始の人の移動などでその拡大は避けられそうもありません。帰省される方は、くれぐれもお気をつけください。新年が平穏に始まることを祈ります。

 

 

 

12月27日 昼食 

2021/12/27

ご飯

醤油麹焼き

キャベツのごまあえ

肉団子スープ

みかん

麦茶

保育を「商品」にしてはいけない

2021/12/26

ぐんぐん組のブログで、屋上で長縄跳びをめぐる子どもの心の通いあいが描かれています。子どもの心の機微を想像しながら、それをそっと包み込むような立ち位置にいる保育者の仕事の質を、誰かが値踏みすることなんて、できるだろうか? できはしない! と考えてしまいました。この人の育ちの過程に見つかるエピソードの数々に値段をつけることはできません。ましてや、保育がどこからどこまでで、ここから保育の商品です、なんて線引きはできません。生活の中に空間や時間の区切りをつけて値段をつけることはできないのです。時間を区切って預かるということと、私たちが実践している保育とは、似て非なるものです。

保育はお金にならない。そういうと、起業家が保育を事業化しにくい、と言っているように聞こえてしまうかもしれませんが、そういう意味ではありません。保育は儲からない、そう言うことではなくて、保育は商品のようにはできない、と言う昨日の話の続きです。

最初に、余談です。

こんなものまで値段がついて商品になっているのか、とびっくりすることが時々あります。坂本龍一の映画音楽「戦場のメリークリスマス」が、1万円でネットで売られていることがニュースになっていました。1万円か!と高いなあ、と思って見ていたら、ご存知の方も多いと思いますが、「戦場のメリークリスマス」の1曲ではなくて、その曲を構成している音符、音、一つが1万円なんです。300だか500だかの音符でできているのそうですが、それが完売したそうです。しかも、早くもネットオークションで、さらにその一音が60万円もの値がついていると言うから、物の価値が本来の使用価値から遠く離れて、投機目的の価値、つまり使う目的ではない、資本増殖の価値にどんどん転化してしまうことの、わかりやすい例ですね。ただ、最初の一音1万円のほうの収益は、慈善事業に寄付されるそうなので、生活基盤を支える「富」の方へ還元されるので、ちょっとホッとしました。

そこで話を戻すと、保育園での保育に値段をつけるとすると、すぐに思いつくものは「保育料」でしょう。子どもを預ける保護者が自治体に支払います。保育園にはきません。この保育料は、児童福祉施設である保育園の場合は、小さい子どもほど高く、さらに保護者の収入が多い方ほど高い、という2つの要素の組み合わせで決まっています。このような価格の決まり方は、市場経済にはありません。一般の商品は、市場メカニズムに任せてあり、供給量に対して需要(ニーズ)が多ければ、価格は上がります。この市場メカニズムに任せないで、規制をかけているものはたくさんあって、公共料金は市場価格ではありません。

ところで、保育料は保護者が負担しますが、実は実際にかかる保育の経費は、その約10倍です。保育料を除く部分は、国の国庫補助から半分、東京都から4分の1、基礎自治体の補助金が4分の1加わります。全部、税金です。つまり保育は、公共的な富なのです。ですから、その富の使用を決定するのは、私たちではなく、自治体の福祉事務所が審査の上で決定します。実際の保育経費のうち、7〜8割が人件費です。しかも保育士も看護師も国家資格であり、誰でも担える仕事ではありません。

このような仕組みでやっと成り立っている保育という社会的な富に対して、その富を豊かにするということを望まない国民がいるでしょうか。私たち国民の富である保育の質を良くしようと思わない人はいないと思うのです。しかし、もしこの保育が富ではなくて、市場メカニズムと同じような、言い換えると保育サービス=商品と同じように、需要と供給のバランスで変動してしまう「価値」になってしまったら、私たちはその価値に振り回されてしまい、本当に大事な質を求めることに集中できなくなってしまうでしょう。マルクスはこの転倒を「物象化」と呼びました。

私たちは保育を物象化してはいけません。保育をサービスと呼んではいけないのです。

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