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2020年 1月

1月4日 昼食

2020/01/04

ご飯

豚の生姜焼き

ブロッコリーのサラダ

豆腐の味噌汁

麦茶

質の高い教育をみんなに (SDGSその4)

2020/01/04

園だより1月号 巻頭言より

あけましておめでとうございます。今年は東京オリンピック・パラリンピックの年として必ず歴史に残る年になります。皆さんに一人ひとりにとってどんな一年になるか、わくわくする一年ですね。この一年でさえ、どんな年になるのかわからないのですが、10年後の2030年がどうなっているのか、見通すのは難しいです。それでも、きっとこんな社会になりそうだから、こんな資質・能力が必要だという「未来からの視点」を見つけながら保育を創っていきたいと思います。そこで参考にしている指標の一つが、国連の「17の持続可能な開発目標」(SDGS)です。その一つが「質の高い教育をみんなに」です。

質の高い保育は、「その子にとっての経験の質」の高さと言い換えられます。同じ活動を、同じ時間、同じ場所で「させる」のではなく、「いつ、何を、どうやってやるか」の最適値を各自に保障することが大切になります。すると、それは対象もタイミングも「選択」が必要であり、複数の選択肢のある環境を用意せざるを得ません。育ちの支え方も、一人ひとり異なってくるので、子どもの周りにはタイプの違う他人や必要です。(オープン保育)

もう一つのキーワードが「自覚」です。子ども自身が考え、自分は何をやりたいのか自問自答できる力。自分は何が好きなのか、得意なのか、自分が生かされる環境を探し求める力がこれからの時代に最も必要な探求の方向だと思います。これは非認知的能力です。自分の社会の中での「志」を明確にしていく生き方、と言ってもいいでしょう。私は生物学者の「相川先生」を演じる高橋一生主演のドラマ『僕たちは奇跡でできている』のあるシーンが印象に残っています。自分の生き方に迷っている大学生に、小林薫扮する大学教授が「こんな風に考えるのはどうかな」と語ります。

「アイスの木のスプーン。普通はただのゴミだよね。でも相川先生がやっているのは、それを、どう生かしきるか、ってことだと思う。フィールドワークでは、ちょっとしたことに役に立つ。種や苗を植えた時の目印にしたり、魚を釣る時の浮きに使ったり。スプーンは他の何かにならなくても、色々と生かされる。スプーンが他のものと比べて何ができるとか、できないとかじゃない。ただそのものを生かしきること」

そこから学生たちは、「自分の道」を歩き始めるのですが、そこでの「自覚」の仕方は、その時代の「環境の選択肢」が見えることが大事です。多分、保護者の方がピアノや英語や体操や空手の教室に通わせてみようとするとき、「この子は何に向いているのかな」と考えるのと似ています。そこで保育園で計画しているのが「5歳のハローワーク」です。プロとして働いているお父さん、お母さんの出番です。子どもたちに今の仕事を伝える機会を作りますので、子ども向けに教えてください。子どもたちの「生きる道」を一緒に作り上げましょう。

子どもの経験の質を環境の選択肢から考える。その一歩を進めたいと思います。

【全体】園だより1月号

2020/01/04

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自分の真実を信じて生きる強さ

2020/01/03

仕事と子育ての両立という言い方があります。それができる環境を作るのが私の仕事でもあるのですが、福祉先進国と思われているスウェーデンでさえ前世紀の前半は、それが両立できない時代だったことやその時代の社会の空気が、今日みた映画でわかりました。と同時にこうした女性の生き方の延長線に今の福祉国家ができていったのかもしれません。主人公の女性は名著『児童の世紀』を現した晩年のエレン・ケイに10代で会っているそうです。

あえて映画のタイトルは伏せますが、観終わってこんなことを考えました。人は誰かを好きになり、結婚して子どもを授かるかもしれません。その好きになる相手と時代によっては、波乱に満ちた人生を送ることになります。例えば、それは予期せぬ妊娠がわかり、それは隠さなければならない祝福されない状況だったら。さらに相手の夫も信用できなくなり、自分一人で生き始めなければならなくなる。さらに産んだ子どもを遠い里親に預けざるを得なくなり・・。

辛い選択の連続なのですが、人は何かを失い、でも何かを得ます。その選択は一種の賭けなのですが、その「選択の仕方」にその人の価値観や生き方が現れるのかもしれません。しかし人生は選ぼうとして選んだわけでもなかったり、どうしようもなく選ばされることもありますし、また選ぶ猶予が与えられずに突然やってくることもありますね。人生を山道に例えるなら、分かれ道が頻繁に現れて、しかも日が暮れ始めていて早くたどり着かないといけない。時間は待ってくれないのです。

そこで問われる真価って何だろう。それは、この女性が示しているような直感的な真実です。彼女にとっての真実に誠実に生きている力強さが、胸を打ちます。その美しさを伝えてくれる映画でした。内容は辛い物語ですが、でも救われるのは、主人公が世界的に有名な児童作家となり、その後94歳まで幸せに過ごしているのです。ただ若き青春時代にこんな波乱万丈の人生があったとは、ほとんどの人が知らなかったことです。

黒柳徹子の映画評を紹介します。「私の大好きな作者の若い頃の話。こんな経験があの作品を作らせたの?「子どもの本の女王」と呼ばれた陰に、こんなことがあったの?才能って、こんな風に花開くんですね。すごい!!」黒柳徹子がこの物語が好きなのはすごく納得できます。親子でいる風景がたまらなく素敵でした。

 

 

楽しさの「深さ」について

2020/01/02

「いろいろなものには“深み”があります。保育の“楽しさ”にも深みというものがあって、その深みをみんなで追究できたら素敵です」

これは今日投函した年賀状に書いた言葉の一つです。深みのある味、深みのある言葉、深みのある芸術作品・・大抵の場合、「深い」ことは良い意味で使われます。もし「この料理は味わい深い」と言われたら料理人は嬉しいはずです。ただ「美味しい」と言われるより以上に。どんなものに、「深い」という言葉が使われているか、これまで何年もずっと考えていました。もちろん保育にとってです。そして一定の結論を得ました。それは二つの条件が必要なのです。

一つの条件は、複数の要素が絶妙なバランスを達成していることです。多面的にその良さを感じるのです。もしお茶やワインやコーヒーが好きな方がいらしたら、味わい深いと感じる時の、その味の理由を説明してみてください。複数の要素が混ざり合って、あるいは響き合って、一つだけでは出せない味わいが一つのハーモニーを醸していることでしょう。

もう一つの条件は、長い時間がかかっていることです。伝統的なものに、深い美を感じるのです。時間の洗礼を受けているのです。多くの人々から時を超えて敬意を受けていることがわかるような何かです。

私はそれに「楽しさ」を取り上げたいのです。浅い楽しさではない深い楽しさです。しかも保育の、です。保育の質が高い時、それを実現させている関係者は楽しいはずです。子ども自身も、親も家族も、私たち保育者や地域の人々が、楽しいと感じ、それが深まること、味わい深いこと、そんなことを目指したいからです。深さには限界がありません。さらに深いものがあるのです。

こんなことを、考えながら、昨日の元旦に届いた年賀状を一枚ずつ眺めて過ごす時間がありました。その絵柄と言葉の背景を想像するのが楽しくて、一人ずつに返事を書きました。私は相手によって思いつく言葉が異なるので、一枚ずつ「どんな言葉なら、どんな風に届くんだろう」と、色々と言葉を選びました。

同じ言葉でも相手によって、受け止め方が変わることが想像できるからです。長い文章になってしまう場合もあれば、スピノザの言葉を引用する場合もあったり、即席の俳句を筆で書いたりもしました。もっとも短い言葉は「今度はアキバで」でした。受け止めてらもう相手がいることだけで、嬉しいと思えることが言葉の関係性です。

いただいた年賀状で深いなあ、と感じたものは、4文字しかありませんでした。でも、彼女は美大卒のアーティストでありながら保育士なので、それだけで意図やセンスが伝わってくるのです。私にとっての「深さ」の条件をクリアしています。それが冒頭の写真の年賀状「2020」です。

門松が招く神々との交信

2020/01/01

よく晴れた元旦の朝。宇宙飛行ができる時代になっても、見えないクラウド(雲)のコンピュータが知らない間に「私の好み」を教えてくれる時代になっても、やはり多くの人々が地平線や大海原や霊山(例えば富士山)から陽が昇ってくることに重要性を感じているからでしょう、全国各地の初日の出の映像が、テレビで放送されました。何の疑問もなく、それが当たり前と思っているかもしれませんが、年の初めに太陽を拝みたくなる国民がこれだけいることには意味がありそうです。

それは紛れもなく太陽が生命の源であることを、日本人が無意識に生活律として体に染み込ませているからではないでしょうか。実は母音の「あ」と太陽は関係します。太陽が昇ってくる姿を見ると、太古のヒトは「あ〜」という感嘆の声をあげました。「あ」は畏敬の念を表す母音です。母音と感情は結びついているのですが、その話はまた別の機会にしますが、畏怖の対象でもあった太陽に神性を感じたのは神話を見れば世界共通であることがわかります。

日本ではイザナギの左の目からアマテラス(天照大御神)が、右の目からツクヨミ(月読命)が、そして鼻からスサノオ(須佐之男命)が生まれます。この三神を貴士と言います。こうした物語は、各地にありましたが時の藤原政権が編集して話を繕って都合のいいストーリーに仕立てていきます。日本神話は「古事記」や「日本書紀」に書かれている話ですから、ちょうど藤原不比等の晩年ごろ、つまり養老4年(720年)に編纂が完成しました。そこで今年は「日本書紀」編纂1300年に当たります。日本のはじまり、ここにあり。このキャッチコピーは、1月15日から東京国立博物館の平成館で開かれる特別展「出雲と大和」で使われています。

さて2020年がはじまりました。天照大御神を祀る神社は全国にありますが、伊勢神宮の内宮がその総本社です。しかし日本の神々は多種多様であり、記紀神話に出てくるもの、あるいはそれ以外の神々を正月に招き入れるために、松門を飾ります。なぜ松かというと、日本の海岸線には松がたくさんありました。この100年ぐらいで、原因がよくわからない「松枯れ」が急速に進んでしまったのですが、古くから日本には海岸にはクロマツ、内陸にはアカマツがあるのが普通でした。冬でも青く生命力のある松の木。縁起がいいもの、めでたいものを招く力を松に感じたのです。日本人は海岸や山中で、神やその恵みを待っていたのです。めでたいものに来て欲しい、それをもたらす神を呼び寄せる「依代(よりしろ)」が門松です。

松は、梅や竹と並んで、日本画や襖絵や舞台背景、緞帳にも描かれ、庭園や能舞台にも必須です。しめ飾りは、正月に神様が留まっていただく聖なる場所の表示です。それには藁とシダ(ウラジロ)が使われてきました。

行事のたびに、いろいろな植物を用いている日本の文化。各自が大晦日までたどる反省的時間から一転、朝日が昇るのに合わせて、今度は良きものの到来を自然界と交信し合う松の内の時間。面白いですね。私たちの精神の脈動のあり方にも、文化が流れています。

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