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2020年 7月

7月27日 昼食

2020/07/27

ハヤシライス

キャベツのスープ

オニオンサラダ

すいか/オレンジ

麦茶

こんな心理状態を続けてはいけない

2020/07/26

 

人間はこういう社会を求めてきたとは思えない。そう感じる瞬間というものが時々あります。昔よりも、今の方が断然いいに決まっているのに、どうしてそう思うんだろう。あらゆるデータは過去よりも今の方が幸せである。それは確かなのに、将来に対する不安の方がなぜか大きい。その答えがこの数日の「自粛生活」で見つかりました。これはあくまでも個人的な「感慨」なので、他人にうまく説明することはできません。でも「そうか、そうだったのか」と、自分では妙に納得しています。

それでは、そんな個人的なことを、どうしてここに記すのかというと、ちょっとだけ仕事が関係があるからです。その気づきは例えると「不確かなものが見えてしまった不安」に似ているからです。変な言い方ですが、不確かなことだけがはっきりしてくるという分かり方は、心の健康によくない。

昔の方が、将来のことはよくわからなかったに違いないのです。今の方が将来予想が立ちやすい。いろんなことを過去からも学んでいるし、リスクも計算できるようになった。ところが、わかることが増えたから不安材料もよく見通せるようになってしまった。百年前のスペイン風邪の記録を読んでいると、わかっていないぶん、今よりも呑気だったことがわかる。今の方がいいに決まっている。読んでいると「え、そんなことしちゃってたの!」ということがある。でも、今の方が、わかっている分だけ「まだどうなるかわからない」こともわかってしまった。この「どうなるかわらかない」ことが多すぎると、心理的に結構しんどい。

類人猿から700万年もの間、あるいは旧石器時代の200万年の間、あるいはもっと短くして縄文時代1万年の間、私たちの先祖は、昨日も今日も明日も、ずっと同じ安定した盤石な生活が続くことを願って、努力してきたはず。でも、現代はそういうことを考えることが、まるで、非常識で呑気なヒト扱いされてしまいそうです。みんなが心理的なサバイバーになっています。こんなに豊かでありながら、どこか生き残りをかけて生きているような精神状態を感じてしまうのです。

多くの人はもっと、ノホホンとしていても大丈夫なような、寛いだ社会にならないものなのでしょうか。みんながノホホンと暮らしていい社会にしたい。こんなこというと「何、呑気なこと言ってんだ!」って、やっぱり怒られそうですね。昔から、そんな呑気な時代なんてなかったんだと。ずっと生存競争や戦争があったんだと。でも本当にそうでしょうか。狩猟採集民族の人々の暮らしには、私たちが見失っている考え方や知恵がありました。そこから真剣に学ぶことが結構あるように思えます。大きな価値観の転換に、多くの人が気づく時代が早く来るといいのですが。子どもの成長というものは、結構早いものですよ。(と、考えるから、またよくないのに・・)

グレートジャーニーの果て

2020/07/25

60歳になって、インドネシアから沖縄の石垣島まで、4700キロの海路を、手作りの船で横断した探検家であり医師でもある関野吉晴さんの言葉を思い出します。2つのメッセージが強く心に残っています。

人類はアフリカから約10万年をかけて地球上のあらゆる場所まで拡散しました。それをグレートジャーニーと言いますが、その5万3000キロの足跡を辿る旅に関野さんは40歳になって挑戦しました。足跡を辿るといっても、豪華客船の旅でも飛行機でも鉄道でも自動車でもない、エンジンのついた動力は一切使わずにカヤックや自転車などの人力だけを使って踏破したのです。

その行き先々に待ち受けていたのは、とてつもない自然でした。熱帯や砂漠、気温マイナス40度のシベリア。標高4000メートルを超えるペルーのアンデス山脈。そのいずれにも、今もそこに適応して住む伝統社会の暮らしがありました。人類は、その厳しい自然環境に適応しながら移動を続け、アフリカから最も遠い、チリにまでたどり着くのです。

◆「今の社会は、待てない社会になっている」

「僕はアマゾンに長く生活したりして、日本人ができないことができるようになっていった。それが『待つ』ということなんですね。要するに、今、待てない社会になっている。半年や一年で、あるいは3ヶ月で成果を出さないといけない社会になってしまった。20年、30年先のことにかけて何かをやることができない」

この発言を受けて、ゴリラ研究の第一人者であり、京大総長で日本学術会議会長の山極壽一さんが、こう対応します。

「待つこと、あきらめない精神は、ものすごく人間的だと思うんですね。ゴリラもチンパンジーも待たないし、あきらめちゃうんですよ。そんなことやったって、無駄じゃんって。経験つめば、前に失敗していればやらないわけですね。それが王道じゃないですか。ところが失敗しても失敗してもあきらめない、こんな精神をなぜ人間は持てたんだろう。それが実は、最終的には新しい技術を手に入れることになったり、発見を通して新しいリソースを使えるようになったりするわけですよね。それって、いつできたんだろう?」

「今は、逆にあきらめやすく、待たないんですよ。それは、人間的な本質をどんどん失いかけているんじゃないか。あきらめない、待つということは、時間を現実の価値観ではない、未来の価値観にかけて使うわけですね。それは単視眼的に見れば、それはムダに見える。でも、それをやり通すことが、ブレークスルーにつながったり、イノベーションにつながったりする。それを人間はずっとやり続けてきたのに、なぜこんなに待てなくなっちゃんたんだろう。こんなにも、あきらめやすくなっちゃんたんだろうって思うんですよね」

関野さんの言葉のもう1つが、これです。

彼は寒冷の地、チリのナバリーノ島に住む先住民ヤマナ族の女性たちと出会って、気付いたと言います。そこは19世紀に持ち込まれた疫病で人口が減ってしまいました。

◆最も遠くまで辿り着いたのは、皮肉にも一番弱い人たちだった

未知の土地にたどり着いたのは、開拓精神に溢れる強い人ではなく、むしろ既存の土地から弾き出された弱い人々だったのではないか、と実際にその人々に会って一緒に暮らすと、思い当たるのだというのです。

「最も遠い場所までたどり着くのですから、一番進取の気鋭に富んだ、好奇心と向上心の強い人のはずなのに、一番弱い人たちだったわけです。パイオニアとしてその土地を支配した人たちは、そこに新しい文化を作って、そこを住めば都にした。そこが住みやすくなると人口が増えてまた弱い人が突き出される。それを繰り返したんじゃないか。それが今、住むところがないほど、広がったということですね」

この2人の対談は、NHKのスイッチインタビューN084「ゴリラから見たヒト 旅から見た日本人」(2015年8月15日放送)です。

国連難民高等弁務官事務所の緒方直子さんは昔、難民を作り出しているのはどうしてかを考えて欲しいと語っていました。今の世界がコロナ社会になって弱い人が「突き出される場所」は、もはや国境さえ来られないとどこかです。もしかしたら、それは病院なのかもしれません。あるいは、診断を受ける機会も得られないまま、後になって超過死亡数にカウントされているのかもしれません。

人類の人権の中で中心をなす「精神の自由」は、「移動の自由」と「集会の自由」に根差すのですが、強い人たちは、この機にその覇権行使をあからさまに開始しました。NHKのスイッチインタビューN084「ゴリラから見たヒト 旅から見た日本人」では、なぜ戦争をするのかも、語りあっています。

肉親の死を傍らで弔う自由も危うい社会になりつつあるなかで、いろいろなことに気づきにくい社会になりそうで、子らの将来を考えると、そっちのことも心配です。

 

感染の上昇率は減少し始めている

2020/07/24

指数関数的に増えているのかどうか気になっていたのですが、あまり急激なカーブを描いていないので、増加率を調べると1未満に向かっています。新型コロナウイルス感染の実態は、どうも減り始めているようです。2週間前に警戒を始めた効果が現れているようです。私たちは2週間前の過去をみているので、あまりピンときませんが、実態は減少傾向に向かっています。昨日23日に都内は300を超えて今日も増えるでしょうが、増え方は減り始めたので、一安心です。あと2週間は惰性で増えるかもしれませんが、近いうちピークを迎えて減少に向かうようです。ただ4月の時と同じで、減り始める原因がよくわかりません。この原因を突き止めてもらいたいものです。

7月24日 昼食

2020/07/24

ご飯

豆腐ハンバーグ

わかめの味噌汁

麦茶

 

子どもを信じてみる

2020/07/24

保育園の中に「見守る保育の三省」という言葉が書かれている写真盾がありますが、ご覧になったことはありますか?普段からよく目にする物のため、何気なく通り過ぎていますが、ふとした時にぜひ読んでみていただきたいです。子どもと関わるときはいつも心に持っていること、一日の終わりに読む詩のような物と私はいつも解釈をしています。
一番最初に「子どもの存在をまるごと信じただろうか」という問いがあります。 これは、解りやすいようで、実はとても難しい。この言葉から見られた今日の出来事を紹介したいと思います。

〇私はやりたくない

朝登園すると、わらす組の日課として「イルカ、かに」のプールグループを選んでいます。選択のやり取りをしている中で「おやすみでいい」というわいわいさん。すると保護者が「え?お休みでいいの?プール入れるんだよ?」 「おやすみでいいの」というやり取りです。 そこで、「直前で気持ちが変わったら入れるので、カードは〇にしておいてください。また、本人の気持ちを聞いてみます。」と保育者が伝えて、その場は終わりに。。。結果、その子はプールには入りませんでした。

〇なんで「イルカ と かに」なのか?

イルカグループを選んだ子どもは、「顔が水にかかっても元気に遊ぶ」

かにグループを選んだ子どもは、「顔に水がかからないで遊ぶ」

という内容の違いがあります。これは、子ども達それぞれが「水」との楽しみ方を選べるようにしているからです。自分のやりたいことを選択できるようにするために年齢別ではなくて活動別にするのです。 ここで重要なのは、「子どもは自分の都合の良いように選択をすることもありますが、自分に必要な経験(発達するために)を自ら選択する力がある」ということを忘れてはいけません。(ここに、三省の言葉が少し関わっているのですが) 子どもは自ら学び育とうとする力があるのです。 その子どもの育とうとする力と必要な経験の環境とが合わさって子どもの生活はできていくのです。そのために、私たちは、選択をする機会を設けています。

〇見えないから見ようとするのでなく「信じて観る」

例えば、毎日「水遊び入らない」という子どもがいます。そんなときどうしましょう。きっと、というか私も「入ってみたら楽しいかも」「入って欲しいな」という思いから誘いかけるような言葉が次に出てきます。それでも、「やらない」と言う。さて、どうしましょう。。。この「どうしましょう」は私たち保育をさせて抱いている側にもあります。

○今ではなく、年長の時に出来ていたり、出来るようになる。

今このブログを書いているのは、そこの迷いを持ちながらもその時に「わかった。」と受け入れていたわいわい組(今のらんらん組)が、今年のプールや水遊びを楽しみに待つ(態度)姿がみられているのです。先日ある保護者ともそこの成長の共有をしましたが、自ら必要な選択する事は、私達の主観では決められません。例えば水遊びでやりたくないという子どもは、水が怖いならカニを選べばいいけど選ばないのは、水ではない何かの理由があるのでしょう。その心の思いや葛藤を大人がコントロールするのではなくて、子ども自身にさせてあげるとこが、選択の幅や深みが出てくる、言葉では難しいですが『考える力、自己認知、自分の確立』などに繋がっているのでしょう。子ども自身にさせてあげていたことが、今年の夏を楽しみに待つ姿へと結果的に繋がったと私は思うのです。

○人は都合のいいように解釈する

さて、子どもは自分の都合のいいように選択をすると同様に大人も都合の良い解釈をします。上記も私の都合の良い解釈なのかもしれません。選択はそんなに重要じゃないのかもしれない。

ただ、1つ確かなことは目指していた事は同じで達成できているということです。『入りたくない』という子どもを色々取って付けて、ご褒美あげて入れるようにしても良いでしょうし、そもそも入らないという選択肢がない関わり方もあります。でも、そのどれもが『プールや、水遊びに参加して楽しませたい』というこちら側の思いや目的や目標があったでしょう。何が言いたいかというともう解りますね。

どうやって達成するかは自由です。ただ、やらされたではなくて、自らやるように。『自分らしく意欲的で、、、』という、私達の目指す目標には、やはり選択の方法から達成できたことが良かったと思うのです。

○信じて待ちましょう!

一番最初に、子どもは自分の必要な経験を自分で選んでいると書きました。 昨年選んでいなかった子が一年後に選ぶようになるまでには、日々の様々な経験が繋がったいることは確かです。その結果とは言いませんが、私達大人が気付くのに一年かかりました。でも、その姿は本当に素晴らしい。 子どもをありのままに愛して、関わっていきましょう。 何でも良いではない。環境が大事です。それには物だけでなく、社会や大人の関わり方や選択の仕方、そのようなことがとても大切です。それは、保育園と家庭と一緒に考えて環境を作ることをやっていきたいですね。

 

☆子どもは自ら必要な経験を自分で選択できる。

と言うのは特に珍しい考えではありません。モンテッソーリ教育やシュタイナ-教育と言う言葉を聞いたことがある方は多いと思います。モンテッソーリでは、自己教育力という言葉でこの自ら育つ力を略しています。決して珍しいというより、オールドスタンダードな考えでもあります。ただ、私達は子どもは未熟だから環境が必要ではなくて、有能だからこそ、その能力を発揮できる環境を一人一人に整えようとしています。この部分は、園長にバトンタッチです。笑

ザ・リフレクティブ・プラクティショナー

2020/07/23

久しぶりに、ここから学び直そうとする姿勢にちょっと感動したので、その時のことを書いておきます。彼は優秀な「リフレクティブ・プラクティショナー」なのですが、さらにその意味を自ら問いかけなおそうとしていることことが、素晴らしいのです。

The Reflective Practitioner  ーこの言葉は1983年、今から37年も前に書かれた書籍のタイトルです。日本語に直訳すると「省察的な実践家」となります。reflectiveを省察的と訳すか、反省すると訳すか、振り返ると訳すかでニュアンスは異なりますが、名詞はReflection もちろん語源は反射という意味の言葉です。いずにしても、省みる実践者ということです。しかしTheがついているので政治家とかと同じように「実践家」というニュアンスになります。これを書いたのは当時、MITにいたロナルド・ショーン(1931〜1997年)です。日本には佐藤学さんが2001年に秋田喜代美さんと共に訳して日本に紹介しました。

本は『専門家の知恵』(ゆみる出版)と訳されたので、タイトルだけでは焦点がぼやけてしまったきらいがあります。もしかしたら「専門家なら知恵があるに決まっている。その内容を紹介でもしたのかな?」と、なってしまいかねません。そうではなくて、ショーンは常に変化する状況と対話し続ける実践者の専門性を位置付けなおそうとしたのです。知恵が変化するのです。というよりも新たな状況について考え続けることで新しい知恵が生まれたり、新しい判断に至ったりする、そのプロセスの中に専門性があるとしたのです。いや、その営みそのもの、その営みを刷新していく力そのものが専門性だと言ったほうが正確かもしれません。

知恵は生かされ、時には誤り、さらに改善されてより善いものになっていく。経験によって新しい課題が発見され、未知の課題に臨み続ける、まさに、現代の企業の社員は、その力を求められていると言えます。企業の経験学習は、体系化された知識やスキルを現場に適応して通用するようなものではありません。

そうした動的な営みの中に専門的な知恵が息づくことを重視しよう!と当時、投げかけたのがショーンでした。今となっては、そんなに斬新は提案ではないでしょう。この専門家像が日本の看護界や学校の先生や保育界に及んできたのは、2005年ごろでした。2010年の保育所保育指針の改定の時にも話題になりました。厚労省のヒヤリングで森上史郎さんが「これからは保育士の専門性が大きく変わる。前に戻ることはない」と明言していました。

私は「これでやっと保育者の専門性が全く変わる。手遊びやら歌や踊りやら、運動遊びやら、そうした表面的な技術がいくらあっても仕方ない。保育のプロセスの質を高めるには、その保育のまっさい中に、いろいろなことに気づく力がないとどうしようもない」ということの理論的な支柱をえたと感じました。そして保育所保育指針の解説書を書くにあたってそれも議論しました。

しかし他のことでもよくあるのですが、本来の行為の中のリフレクションというダイナミズムが失われて、行為の後の(ついての)省察だけが取り上げらえれることが増えました。最悪なのは、形だけの「反省」だけが求められる形式主義に陥ってしまう面もあることです。監査にくる都や市の専門家と話をしても、なかかな通じません。この専門家の意味が行政官にまでは伝わらないのです。

例えば指導案や研修報告欄に「反省欄がありますか」みたいになってしまいました。PDCAが回っていれば省察したことになる、というような別の改善サイクルの話と混同されたり、そちらが優先されてしまったりもしています。こうした無理解や誤解や形骸化に、敏感に反応して「変だな?おかしいな」と感じることや、気づいて省察できることこそが、行為の中の省察であり、ショーンが訴えていたことだったのに。

例えば、保育の事例を書くことは、行為についての省察です。しかし行為の最中に考えながら実践しているのが保育ですから、その最中の子ども理解、心の通い合い、そこで感じとった内容、こうしたらもっとよくなりそうだと気づく環境のあり方、それに基づく次の判断、そして自らの行為、応答的な反応・・・それらの複合的な連続体が保育という塊です。それら一連のプロセスの一瞬一瞬に専門的な知恵が生かされています。うちの先生たちは、そうしたことを常に感じながら保育に携わっています。そうしたことが記述されている保育事例は、素晴らしいし、一方で書けないことや表現できないこともいっぱいあることは、本人が一番知っているし、ましてや保育の可視化は、そのほんの一部でしかないことも自明です。

もう1つ重要なことは、省察や判断の根拠、エビデンスの問題です。この保育の知恵や判断の根拠が、医学や心理学や人類学や社会学の知見に基づくものであっても、その知の枠組みとはまた別の「認知の専門的フレームワーク」が、保育にもあります。その切り取り方や位置づけ直しに当たるのが、教育の五領域であったり、藤森先生の見守る保育の10カ条や保育の三省、あるいは子ども像である保育目標の根拠として私が練り上げた「5つのポイント」になるのです。これらの項目は子どもの発達を保証するために不可欠な省察の視点であり、根拠でもあります。

誤解のないように付け加えると、一般に知識や技能はスキルと言われ、その陳腐化が激しいのが今の時代です。一度学んだことは、すぐに古くなってしまうから学び直す必要があるとよく言われます。しかし、省察的実践家の学びは、この意味では全くありません。それが役立つのはもちろんですが、重要なのは行為の中の省察の方だからです。まあ、確かに行為のスパンを長く取れは、当てはまらないわけでもないかもしれませんが・・。

この話を保育者が読んで、安堵するのか、焦るのか、あるいはチンプンカンプンなのか。その差は大きいかもしれません。

第3回マムズサロンを開催

2020/07/22

 

子どもが快く眠れるには、やっぱり寝る前に安心できるようになっていることが大事だなと、本日22日の第3回マムズサロンを聞いていて思いました。ズームでの睡眠講座はこれで3回目ですが、家庭にいながら参加でき、また講師の永持さんの説明資料も画面共有で理解しやすく、オンライン講座は便利です。日程はホームページの「Mam’ Salon」でどうぞ。次回は8月7日(金)午前10時〜11時です。お申し込みは、メールで保育園までどうぞ。

c.seiga@chiyodaseige.ed.jp

 

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