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SDGS(保育アーカイブ)

砂場や池の魅力

2023/10/05

保育ドキュメンテーションでお伝えしているように、今週から外遊びができる気候になり、散歩先でちょっとしたドラマが展開中ですね。乳児は芝生の上でピクニックのような解放感を味わっているようです。

1歳児や2歳児は公園にある砂場での見立て遊びも盛り上がっていますね。

幼児は3階ベランダの木枠に子どもたちが砂を入れて砂場が出来ました。

一方、幼児たちは団地の公園に見つけた池にザリガニがあることを知り、釣るための道具を作って持っていったものの・・・。「釣りは禁止」の現実に直面した子どもたち。さあ、どうする!?

アゲハにとってのみかんの葉っぱ

2023/03/01

私たちが一生の間に身につけた「資質・能力」は、子孫に受け継がれることはありません。親がダンスや英語が上手くなっても子どもはゼロから始めるしかありません。個人が経験から獲得した「形質」が、子どもに遺伝することはありません。アゲハが柑橘系の葉っぱを食べるようになったのは、長い「進化」の過程で得たものであり、個体が訓練や鍛錬でそうなったわけでありません。それと同じ自然原理が人間にも働いているわけですが、たかだか人の個人の一生の間に学んで身につくものが、どれほどのものかと考えれば、大したことをやっているようには思えなくなります。それでも人間の作り出したものの影響はとても大きいので、その人間が作り出した環境をどうするかを考えてよりよくしていく(たぶんより大胆に変えていく)ことが必要になりました。

せっかくアゲハの話をしているので、そちらの話を先にしておきますが、進化のほとんどは結果論ですから、たまたま変異した個体がその環境にあったからその世代が生き残り、次の世代を残すことができた、ということの偶然の積み重ねでしかありません。昔話風にいうと、昔々、ある植物が美味しい葉っぱをもつようになった頃、その葉っぱを食べる青虫(芋虫)がやってきてむしゃむしゃ食べました。葉っぱを食べられて困っていたその植物は、その子孫の中に、アルカロイドという毒を葉っぱを持つ子どもが生まれました。葉っぱはまずいし、食べると気持ちが悪くなるので、青虫に食べられずに済みました。

ところが今度は、青虫の子孫の方に、その毒を解毒できるものが現れました。突然変異でたまたまです。キャベツの中のカラシ油の仲間のアルカロイドを分解できる青虫が、モンシロチョウです。アゲハはみかんやゆずなどの柑橘系の毒を分解できるのです。でもニンジンやパセリの葉のアルカロイドは分解できませんから食べません。ところが面白いことに、キアゲハは解毒できるから、ニンジンやパセリの葉っぱを食べるんです。こうやって、食うか食われるかの生存競争の中で、バランスをとっているのが自然の生態系ということになります。

ところで、私はあまりお酒が飲めません。人はアルコールを飲むと、アセトアルデヒドという物質ができて気持ち悪くなるのですが、それを分解する酵素を持っている人と持っていない人いるのです。お酒を飲んだ翌朝のおしっこに特有の匂いがあるのをお気づきでしょうか。あれがアセトアルデヒドです。お酒に強い人というのはその分解酵素を持っている人です。私は少ないのでしょう、お酒はあまり飲めません。お酒を飲む練習しても強くなったりしません。

そこでやっと本題ですが、人間が作り出した文化や文明の影響がとても大きいので、それに適応して生きていくために教育が必要になりました。親がいろんな知識やスキルを持っても、子どもに受け継がせることはできないのです。他者と支え合って生きていくために、より良い社会を作り出していくための力の基礎。保育はこれを育もうということなのです。

 

子どもは自然栽培の味噌の「おいしさ」がわかる

2022/09/22

今日の給食のお味噌汁は、自然栽培で作った味噌を使いました。すると、ある子どもが「おいしい」と言って、おかわりをしました。どうも子どもは、この「おいしさ」の違いがわかるようなのです。子どもの身体はまだ自然に近いので、この違いをキャッチするセンサーがあるのでしょうか。この辺りの人体をめぐる科学は、非常に遅れており、身体についてはわかっていないことが、山ほどあります。この今日22日(金)のエピソードを聞いて、次のような話を思い出しました。自然栽培で作られた作物やその発酵食品(この場合は味噌)は、私たちの人体を自然の生態系の一部に戻してくれるという話です。ちょっと長くなりますが、人体と自然との関係を考えると、うちなる自然環境は、実は胃や腸だという話に遡ることになります。

私たちの体の<内部>はどこか?というと、胃や腸は<外部>であって、内部でないと考えることができます。口から肛門までは筒になっていて、外の環境に開かれています。口から物を食べて、肛門から排泄する。その途中で色々なものを体内に取り込んで、体内から不要なものを外の出すわけですが、この通り道の筒は、体の内部ではなく外部だと考えることができます。私たちの人体を大きな一つの筒、トイレットペーパーやサランラップの芯のようは円筒だと思ってください。

その人体の円筒模型は、もっぺらぼうではなくて、ビオトープのような生態系になっています。口と肛門という蓋がつているので、空洞部分の中身は、私たちの意志で開けたり閉めたりできます。ただその円筒の途中にも、幾つも開け閉めできる門があって、その部屋は閉じられています。口腔、胃、小腸、大腸、直腸などの部屋に分かれていると思ってください。その生態系は、例えると、口腔は石畳の庭の入り口のようなもので、食道は草むらの細長い道のようなもので、その先の胃は、洞窟になっていて中はうねるような林です。

さらにその後の小腸はまるで密林のようです。その中には、色々な液体が雨のように降っているジャングルのように湿っており、いろんな生き物が棲んでいます。乳酸菌やフェカリス菌、アシドフィルス菌、ビフィズス菌など、有名なものから、聞いたこともないような不思議な菌類がいっぱい棲んでいます。

私たちは自分の胃や腸を内部だと思っているので、ちょっと見当はずれなことをたくさんしてしまっています。私たちの本当の内部から見たら、この外部である胃や腸の中を、もっといい環境にしてあげる必要があるのです。それは棲んでいる部屋の空間をよくするのと同じように、外部である胃や腸の中をよくすることが大切なのです。最近、よく言われるようになった腸内環境を良くしようというのは、このことです。

すると、腸には口から入れても実は胃のところで強酸で分解されてしまうので、ほとんどの菌はそこで死んでしまいます。先ほどの羅列した菌たちは、腸のビオトープまでは辿り着けません。では、どうやったら腸内環境が良くなるのかというと、腸内環境を含めた円筒模型の中身を、自然の生態系に戻すことが必要になります。そのために、私たちは筒の中だけを問題にするのではなくて、筒の厚さの部分、つまり私たちの肉体、身体そのものを、内側から自然なるものに作り替えていく必要があります。その方法は、自然栽培の世界と私たちの身体を繋いでいくことなのです。

 

自立の姿(その8)身近なものの扱い

2022/03/08

「身近なものの扱い」の自立の姿は「社会の変化で変わる生活スキルの基礎を模倣を通じて学ぶこと」ということになります。

ちょっとだけ、人間と環境の関係の本質について説明しておきます。

人間は周りの環境世界から、自分にとって気に入るもの、自分を惹きつけるもの、有用なものを取り入れようとします。世界は自分にとってどうあるのかこそ、生存を左右しかねないテーマになるからです。そういう意味では、発達というのは、子どもが事物を見たり触ったりしながら、自分にとって気に入った心地よいもの、有用なものを引き寄せながら、自分の生活圏の中に「あるもの」を取り込んでいくことでもあります。

事物は子どもにとって、どのような姿を見せてくれるのでしょうか。それを探り当てながら、その事物そのものが伝えてくるものを、子どもは受け取っています。心地よいこと自体に意味があるのではなく、それを与えるにふさわしい性格がその事物に備わっていると言う事が大事なのです。

また、身の回りの「もの」のそれぞれについて、子どもはその用途や目的を理解することで、その扱い方を覚えます。その用途の目的と「もの」の概念はセットです。例えば、ここにコップがあります。初めてコップを見た子どもは、その用途をまだ知りませんから、触って倒したり、持って口に持っていって舐めたり、場合によっては手を離して落としたり、転がしたり、半ば偶然に任せていろんなことをします。毎日の生活の中でそれにお茶やミルクが注がれて、飲むという場面でコップが現れるので、それを口へ持っていって傾けて飲むものであることを認識するようになっていきます。また使われるたびに、「はいコップどうぞ」だとか「コップはこっちね」など、繰り返し聞こえてくるコップのところが、どうも「コップ」というものらしいと気づき始めます。言葉の獲得も「もの」の扱いを促します。

子どもはいつもの使われ方と意味される概念を結びつけて自分のものとします。こうして子どもは教えてもらわなくても、見る力、聞く力で、その対象のものの扱いを習得していくのです。そうではければ、身の回りの物の扱い方を、まるで自動車教習所で車の運転を学ぶかのように、いちいち一つずつ教えなければならないことになります。以上をまとめると、子どもは世界から意味のある対象を選び取るのですが、そこには他の人が使っている意図と方法をセットで模倣し、自分のものにしていきます。

このイミテーション学習を、ざっくりと「模倣」と呼びます。真似ることが学ぶことになっていきます。その中にものの扱いも含まれるのですが、人間は手順を覚えるというよりは、その目的を先に理解してしまうので、その目的に適った方法を自分で編み出します。前置きが随分と長くなりましたが、この物の扱い方は、そのものの用途にあった扱い方をモデルを通じて身につけていくので、上手な扱い方を見せることが、上手な扱い方を真似するようになります。実は挨拶も同じ原理なのですが、それは次回の最終回で説明します。

さて、本題に戻りましょう。生活上のものの扱いというと、衣食住の中に見られるものは全てです。衣類と食事はお話ししましたが、住むということの中には、居住空間の中にあるものですが、現代はかなり電化製品が代わりをしてくれるようになり、昔は子どもの頃から習得する必要のあった掃除や洗濯、裁縫、水汲みや灯り、火を起こしたり灯りを灯したりといったことも、生活技術の中から消えてしまいました。家庭生活の中に残っているものの扱いは、どんな取扱説明書があるかが象徴的です。

当園では、あえて昔からある生活技術の中から、ほうきとちり取り、雑巾掛け、モップなどの掃除スキルは体験しています。お米とぎや野菜の栽培、金魚や生き物への餌やり、生花なども生活の中のスキルです。現代は学問優先の学校教育になってしまいましたが、高等教育を受けても、現代社会を生きるための生活技術がすっぽりと抜け落ちているので、恋愛や子育て、経済や保険など、すぐに必要な基礎スキルを持たずに社会に放り出されている若者が多い気がして、とても気の毒です。やっと英語やプログラミングや金融を学校で学べるようになりましたが、教える先生が足りないという状況です。

こんなにあからさまに抜け抜けと戦争が勃発する社会を突きつけられると、きちんと政治と平和を教える国際的カリキュラムが不可欠なようです。核やロケットや武器を身近なものとして、大人もその扱い方を1から学び直してもらう必要があるようです。

 

 

ダンスのある風景

2021/09/26

その日に感じたことは、たぶん一生かかっても体験できない内容でした。理解はできても自分で体験はできそうもないようなことです。理解や説明だけなら「たいそう意義深い話を聞きました。終わり」です。でも、それでは、ここの日記に書く必要もないので、どうしようか? と考えて、次のように書いてみることにしました。別にもったいぶるわけでなく。考えることも実践なので、それでも体験が経験に変わっていくような何かがあるからです。

それがあったのは9月26日(日)の夜です。「勉強会があるから来ませんか」とダンサーの青木尚哉さんに誘われて、北青山の「ののあおやま」へ出かけたのです。すると海老原商店の海老原さんもいて、二人並んで参加しました。青木さんが企画したイベントで、青木さんと平賀達也さんと対談でした。

内容は全部「人間は自然から分離されてしまったが、どうやったら人間は自然と交信できるか」というものだったのです。そんなテーマが掲げられていたわけではありません。でも、二人で交わされていた内容は、全部、自分と身体の関係、人間と住んでいる場所との関係、人間と自然との関係についての、しかも、交信できてしまうお二人の体験談だったのです。論でも抽象でもなくリアルな体験、身をもって身体を通過した感覚を伴った体験の話です。

話はダンサー青木さんが今ずっと試みている実験、つまり舞台から降りて、街や学校や路上や森で踊ってみると、それを観る人の反応や距離感が全部違って面白いという体験談から始まりました。実験してみてそれを話しあって学びを深めるというダンスの循環物語を紡ぎ出しています。対談の相手の平賀さんは、土地や地形が風土が持っている「自然の必然」が見えてしまう方(のように私には見えた!)で、体験談は、マンションを建設したり、道路を走らせたり、土地を改良したりするときに「どうあるべきか」という方針を、その土地の歴史や風土から導き出すお手伝いのようなことをしているというものでした。

平賀さんは「ののあおやま」の再開発デザインを担当し、青木さんには「ランドスケープ」というタイトルの創作ダンス作品があり、この場所「ののあおやま」で先日、新しいダンス「もりのダンス」を踊ったのでした。

平賀さん「四谷怪談の最後の場面で、ざあっ〜って風が吹いたでしょう。あのとき、私たちの足の裏から地面を通じて四谷まで通じ合ったんだよね」「昔の人は田んぼに足をつけて仕事しているとき、山の異変に気づけたんだろうな」「自然や人には樹状パターンというのがあって、元気な人がそれが躍動して見える」

青木さん「子どもと踊っているといっぱいインスパイアされている」「風景と景色の意味の違いがダンスを作り出だしたりしている」「渓流に身を任せていると傷つかないのに、不自然な力を入れると岩にぶつかって怪我する」

お二人に共通するのは、実践そのものが文明批評になっていること。実践していることがダンスだったりランドスケープデザインだったりと、分野は、全く異なるのですが、私たちが見失っている生き方の方向性や立ち位置、みんなが抱いている「迷子感」や「不自然さ」といったものを、無視しないで、その違和感がどこから来ているのかを明らかにしながら、「やっぱりこっちだよね」を探り当てながら、実践しているアーティスト、表現者なんだということでした。

 

 

「バイバ〜イ いいところで暮らしてね」

2021/09/22

さて、この写真、子どもたちは何をしていると思われますか。

「バイバイ、いいところで暮らしてね」

「お花の蜜、たっぷりある場所のお花で暮らしてね」

「カラスに食べられないようにね」

「また遊びにきてね」

「海に溺れないように」

子どもたちは口々に、こんな言葉をかけていました。そうなんです。今日は朝早く、アゲハがサナギから孵化(じゃなくて羽化でした)して蝶になったのです。

そして3階のベランダから、自然に返してあげているところです。

私のスマホに一人ひとりの発言がはっきりと録音されているのですが、面白ことに気づきました。

こんなに多くの子どもたちがいて、何かを自由にしゃべっていいという状況になると、大抵はそれぞれがしゃべり始めて、声が重なってしまうことが多いのですが、この時ばかりは、そうなりませんでした。それはまるで、劇のセリフを順番にいう時のように、それぞれの発言を他の子どもたちが、しっかりと聞いているかのようでした。

そうなったのは、一つには、ベランダのネットにじっととまっているアゲハが、いつ飛び立つんだろうと、じっと見つめていたからかもしれません。固唾を飲んで見守っていたからです。

みかんの木に卵を見つけたのが9月2日。それから20日で蝶になりました。

人間に例えるなら二十歳で成人したわけで、蝶の1日は、人の1年にあたります。この間、ずっと毎日のように観察を続けてきた子どもたちだからこそ、冒頭のような言葉が次々と浮かんできたのでしょう。

・・・気持ちの優しい、子どもたちです。

今週の「ちょっといい話」

2021/07/10

月曜日。梅雨の長雨で被害を被られた方々は本当にお気の毒でお見舞い申し上げます。その梅雨のせいなのか、神田川側のベランダにカニがお目見え、一旦は玄関の水槽を用意したのですが、狭いところは嫌なのか出ていってしまいました。初めてカニを見た乳児もいました。また来てくれるでしょうか。

屋上のひまわりが咲きました。

和泉橋からよく見えます。このひまわり、昨年咲いたひまわりの種から育ちました。神宮司さんが、せっせと世話してくれたものです。ちょっとした清涼剤ですよね。

カブトムシくんたちも、子どもたちに大事なことを(身お挺して)プレゼントしてくれています。

私だって触れるも〜ん。(左指にご注目^_^)

季節感のある保育園にするには、生き物たちが教えてれてくる季節が一番ですね。

火曜日。アキバ分室の子育てひろば担当の松本さんが来園。永持さんの睡眠講座、アキバ分室でも開くことになりそうです。

子どもたちが作った色とりどり「風鈴」は、いろんなアート技法が取り入れられていて、和みます。

それを見つめてくださっていた親御さんたち。叶えてあげたいなあと寄り添う大人の優しさを感じました。

水曜日。7日の七夕では、笹の葉に願い事がいろいろ。幼な子の思い、きらきらと宝物のようにゆらめいて輝いていました。

絵本タイムは、『としょかんライオン』を読んであげました。

最後の「走ってはいけません」が、どう届くかな?と思ったのですが、子どもなりにウィットが理解できるようになってきたかもしれません。

木曜日。夏の水開きの日でしたが、屋上の野菜もどんどん大きくなっています。

「これな〜に」の指の先には、なす、きゅうり、すいかの花が咲いていました。

(ナスの花)

(キュウリの花)

スイカもぐんぐん大きくなってきました。

園で育てたものではありませんが、とうもろこしの皮むきを楽しんでいる様子は、クラスのブログでご覧ください。

金曜日。林修(はやし・しゅう)さんの作品「チェンソー」が玄関に展示されました。

海老原商店で展示されたものです。扉の廃材がアート作品に生まれ変わったものです。

子どもたちにも「美」の思い込みを揺さぶる「じわじわ効果」があると、いいな。

土曜日。今年1番の暑さ。東京ビエンナーレ開催。園児のMKさんと一緒に尋ねてきました。

詳しくはまたレポートします。

賞状を玄関に展示しました。6月に発表した、東京都社会福祉協議会保育部会の研究大会への貢献です。

親子ふれあいイベント第一弾「稲の配布」

2021/04/23

 

親子遠足の代わりの「親子ふれあいイベント」を早速始めます。その第一弾は「親子で田植え!」です。苗を配布しますので、家庭で育ててみてください。この稲は私と事務長の2人で、昨年秋に稲刈りをした田んぼの稲です。藤崎農場といいます。この田んぼは私たちの法人で長く付き合っている田んぼで、「耕さない田んぼ」で有名です。無農薬ですから、水田の中にはメダカなどの水生動物がたくさん棲んでいて、空中には虫が飛び交い、サギなど鳥もきます。

そんな生態系が守られている、これから求められているSDGsにふさわしい田んぼです。自然の風雪に晒されているからか、数年前の台風でも倒れない強さもあります。

この藤崎農場の田んぼの仕組みの紹介YouTubeです。見てみてね!
https://youtu.be/I4i9VmC_Ma4

その田植えで使う稲がもうすぐ届きますので、そのお裾分けです。容器を持ってきていただけば、荒木田土とセットで差し上げますので、ちょっと変わったインテリアとしても育ててみてください。

20210423 稲お知らせ(親子ふれあいイベント第一弾)

 

利他性が発揮されている毎日

2021/04/14

今週4月12日(月)から、東京でコロナ感染の蔓延防止対策が始まったわけですが、「春に三日の晴れなし」と言われるように、春は意外とカラリと腫れた日が少ないもの。ちょっとでも晴れていたら「外遊び」を取り入れたいと考えています。今日14日は雨だったので、室内やベランダでの様子がクラスブログで紹介されています。

そこで見られる姿は、面白いことに子どもたちが元々もっている「利他性」が発揮されていることです。利他的という言葉はちょっと難しい言い回しですが、「利己的」の反対です。自分にとっては直接メリットがなく他人のために役立つような行為です。そうした「態度」は、お手伝いをやりたがる、率先して掃除や片付けを手伝う、お友達の気持ちに気づいて優しく接する、楽しそうな遊びをお友達にも伝える・・・そうした姿の中に見出されます。

千代田せいが保育園の保育が何を目指しているのかというと、色々な言い方ができるのですが、子どもの育ちゆく姿としては「保育目標」というものがあります。学校だったら教室の前に額縁に入れて掲げてある「教育目標」と同じ位置付けのものです。保育園も幼稚園も学校も、それは子どもを主語に書かれています。例えば和泉小学校は「人にやさしく 自分につよく 明るく 元気な 和泉の子」です。省略してありますが、主語が「子どもは」になっているでしょ。社会性、克己心、内面性、健康などの要素が盛り込まれていますね。注目して欲しいのは、トップに「人にやさしく」と利他性を含む人間性が掲げられているということです。

千代田せいが保育園の場合は「自分らしく、意欲的で、思いやりのある子ども」です。思いやりというのは、他人への「共感」の育ちがベースになるのですが、その育ちの基盤は持って生まれたもの(つまり教えて学んだものではなく、生得的に持って生まれるもの)と言われる模倣の力です。じっと見て真似をするという力が、相手の心の動きを想像しながらなぞるようにイミテーションできる力のことです。

したがって、心をなぞりたい!、一緒になりたい!と愛着を持てる対象がそばにいなければ、模倣する対象をもてませんし、共感体験が生じません。ちっちやぐんぐんやにこにこの頃から、その体験を積み重ねていく中で、他人への信頼感を獲得しながら、言葉も獲得し、やさしさを育て、思いやりという心の姿勢を形作ることができるようになっていくのです。この育ちのまとまりを利他性の発達と言います。SDGsなど持続可能な社会を実現できるかどうかは、保育のテーマとして捉えなおせば、この心の姿勢を育てることに他ならないのです。

成長展は終わっても・・

2021/03/01

2月15日からの成長展が本日3月1日で終了しました。ただパソコンの操作不調で明日2日に追加の特別展上演をします。よろしくお願いします。

終了といえば、大学の保育実習も本日で終わり。最後の反省会を開きましたが「大変だったけど楽しかった」とのこと。実習によって「保育者になりたい」という意欲が高まったようで、なによりでした。3月は将来のことを考えることが増えます。

3月といえば、職員の「異動」の時期でもあります。当園はこの春、職員の異動の予定はありませんが、姉妹園を昨年3月末に退職した保育士が挨拶にきました。省我会で働き始めて8年になると聞いて「もうそんなになるの?」と驚きました。地方で保育士の仕事を続けます。その保育園も同じ「見守る保育」の実施園です。異動によって全国に仲間が散らばり、繋がりが増えていきます。働く職場は異なっても、逆に同じ保育を目指すネットワークは広がります。

繋がりが増えるといえば、SNSの世界も同じ。YAHOOとLINEと経営統合するニュースは、変化する時代を象徴していそうです。情報産業に限らず「アップルカー」のように製造業も水平分業の産業構造へ「抗えないパラダイムチェンジ」が始まっているのでしょう。

抗えない、といえば時代のスピードを感じます。とにかく変化が早い。この加速感は抗えない、という実感を伴います。そんな時代だからこそ、変わらないものや変えてはいけないものに、目を凝らしたくなるのでしょう。保育は後者の領分が大きいからです。この営みはずっと終わらないことでしょう。

 

 

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