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アート(保育アーカイブ)

子どもはガムテープを転がして遊ぶことができる

2023/10/25

◆保育参観でよく見かける子どもの姿

今月10月は「保育参観」が連日行われています。保護者の方が自分の子どもがどんな風に生活しているのか、遊んでいるのか、あるいはどんな風に食事をしているのか、寝ているのかなど、時間帯を選んで参観されています。散歩先の公園まで着いて来てみてもらうこともあります。今日は午前中は乳児は室内から屋上へ、幼児は戸外と室内の行き来がありました。乳児は子どもにみつからないように参観してもらう、というのも保育園の特徴かもしれません。

そこで必ずといっていいほど、家庭と園では見せてくれる姿が違うという話が出てきます。先日も年長の女の子とが「レバーのマリアナ風(ケチャップ味)」を、「美味しそうに食べていた、お代わりまでして!うちではレバーとかは絶対食べないのに」と驚いていらしたり、今日は0歳児クラスの赤ちゃんが屋上の野菜のナスをちぎったり、花壇ではなくビオトープの雑草(猫じゃらしやパンを上手に前歯でかみ切って食べている様子をご覧になって「毎日の写真もありがたいが、やっぱり実際の動きをみてよくわかった」という感想を語られていました。

◆環境の違いからくる子どもの「やりたがり度」

それは最も大雑把に言えば、家庭と園の環境が違う、というということですが、同じ保育園の中でも、同じ子どもが「そっちはやりたがり、でも、こっちは興味を示さない」というようなことが、その都度いっぱい起きています。今日はダンサーの青木さんたちもきて、身体を動かして遊ぶ時間もあったのですが、そういう活動に入ったり、入らなかったりする子どもの様子を私もみていて、このことを改めて考えてみたいと思いました。

その差は子どものさまざまな欲求(生理的欲求や社会的欲求)や、知的な興味や関心、それらを含めた個別の「発達の違い」などと言われているものを中心に捉えることが多かったように思うのですが、それだけでは捉えにくい姿が実際には起きていそうです。つまり遊びをみていると、子どもの内面や心理などの子どもの内側のことに主たる要因を求めるのではなくて、「同じ子ども」が新しく出会う「環境」と子どもの間に実際に起きていることは、別様の説明がいるのではないか、という感じのことです。特に遊びにおいて。

◆ガムテープを転がして遊ぶ姿

ある3歳児クラスの子たち4人ほどが、制作遊びで使うガムテープを床の上で転ばし始めました。タイヤの輪のような向きに転がせば「よく転がる」ということを、わかっているのか(気づいているのか)、わかっていないのか、録画していなかったので、今思うとそれはよくわかりませんでしたが、主に当てずっぽうに、放り投げたりしているように見えました。あわせてキャッキャと騒いで、自分の体も楽しそうに跳びはねています。いつもいる仲間と一緒にやっていることも楽しいようです。ガムテープは時々遠くまで転がったり、ぐねぐねと曲がったり、パタンと止まったり、カタカタと回ったり、緩やかなカーブを描いて戻ってきたり、しています。担任は「あ、戻ってきた!」など、多少演技性を発揮して注目してほしい現象をわざと言葉にしていましたが、子どもは特にそこに面白みを感じ取るわけでもなさそうです。

◆何が面白いのだろう?

自分の手で放られて離れ、ガムテープが床に着地するときの勢いや向き(面)で、転がり方が変わるわけですが、ガムテープという穴の空いた短い円柱という形は、重力下の平面の上では、力を加えると、このような色々な動きをします。これまでにも、この子たちは、いろんなものを同様に投げたり転がしたりしてきたわけですが、そういうことを繰り返しながら、ボールとも風船ともシャボン玉とも違う、物の動きをそこに見出して(意識して比較してはいないのでしょうが)、物の形が持っている特性を、物の動きの中からピックアップしていく、その情報を取り出しているということをやっているのでしょう。そのつながり具合の中に言葉などの象徴的な記号も含まれていくのでしょうけれど。

ガムテープという、子どもが手にして投げることができる程度の大きさと重さ、そこにちょっと広い床があって、自分で難なく操作できるということが、その動きを誘発しているかのように見えてきます。そのものがアフォードした動きが子どもたちの間に生まれた、という見え方できるのでしょう。まずはそうした場が持つ、ある種のエネルギーのような空間を用意してみて、子どもがそこにどういう動きを誘発されて見出していくのかを見てみたくなります。

◆大人が期待することと子どもの遊びのズレ

ただ大人は、普通こんなことしません。ピタゴラスイッチの番組を作っているような人や、SNSでガラス瓶を階段から転がして割れる動画を作っているような人ならともかく、よっぽど暇でもなければ、ガムテープを転がしてみるという遊びなどはしません。それは、しなくても、どうなるかは大体予想がついているから、あえてどうなるか、やってみたいとは思わないのですが、またそういうものは用途が違う、そんなことはしないでほしいもの、だからです。

あえてやったとしても、こんなとき大人が思う「面白さ」は、どうやったらもっよ「よく転がる」か、というあたり向かいがちです。あるいはどうやったら高く積めるかとか、綺麗な形になるとか、大人はそれを思わず期待してしまいます。でも子どもは、あたかも大人のいう実験のように意識して試すというほどの意識もなく、ちょっとやったら面白そうだから、また続けてやってみるという感じで、自分の体も物も勝手に動いている感じです。そして実際に、子どもたちは飽きたら何もなかったように他のことに移っていきました。この話は、明日に続きます。

 

 

ドングリ遊びの中で起きていること

2023/10/21

昨日20日(金)は、保育園を選ぶために来園された方の見学が終わる頃、散歩から園児が帰ってきました。乳児も幼児も秋の収穫物がいろいろです。どんぐりや銀杏、ひめりんご、紫色の何かの木の実も混ざっています。さあ、それを並べたり、潰して色水にしたり、紙や布に浸したり、染めたり、実を転がしたり土に埋めたり、まあ色々なことがなされるでしょう。

どんぐりなら、幼児は毎年のようにコマや、やじろべえが作られたり、色が塗られたり、動物などのマスコットやリース、モビールなどの装飾に使われたりします。

4〜5歳児の子たちは、数日前から牛乳パックでできた長い道を、どんぐりを転がして遊んでいます。右に転がると行き止まりで「はずれ」。左に行くとさらに進めるのだそうです。道から落ちたどんぐりは透明カップの中にうまく落ちれば「あたり」です。さらにそこから先の道ができるのかどうか? そんなことをやるのに子どもの列ができたりしています。

その奥の方では面白いどんぐりマスコットができていました。どんぐりを顔に見立てて、マジックで目や口を描いています。それは絵本「かおかお いろんなかお」と同じコンセプトで、4歳の女の子二人が「眠いかお」とか「うんちのときのかお」などと、いろんな場面の顔を実際に担任にして見せてくれ、それをどんぐりの顔にしていました。

3歳児の男の子は床に落ちて跳ねるどんぐりが面白くなって、床に投げては跳ねさせることを繰り返したり、もっと上に高く投げてみる子どもが出てきたりします。今度は一つずつではなく、数個をまとめて続けて投げる子どもが出てきて、どんぐりがそこらじゅうに転がって散らばると、それに加わった5歳の子は「どんぐりまつりだ」とはしゃいでいます。ちょっとはしゃぎすぎると、先生から「ちょっと遊び方が違うかもなあ」と修正されたりしながらですが(笑)。

こういう姿を見ていると、子どもは思いつきでいろんな遊びを楽しんでいるのですが、年齢によってもその差が見られ、遊びの「あてどなさ」とでもいうのでしょうか、受動的にあれもこれもと注意が拡散している時期から、だんだん目的を持ってやることが高度になっていく感じが確かにあるのです。その辺りの違いはクラスごとの保育ドキュメンテーションで比べてもらえるとわかるかもしれません。

しかし、そのことをもっと本質的に捉えると次のようなことになりそうです。無藤隆先生が、このような遊びの特質を次のように表現されていましたので、了解をいただきましたので、ちょっと長いのですが全文をご紹介します。

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○幼児は一歩前に踏み出し新鮮さに出会う

幼児はどうして毎日のように園に来て、毎日のように新しいことに取り組むような新鮮な気持ちで遊ぶのであろうか。

そもそも、今という時間は静止した固定したことではない。常に動きつつ、その流動はどうやらその瞬間といいながらもごく短い時間の継起としても経験されるらしい。その瞬間は今でありつつ、既にその次の一瞬に踏み出しかけ、そしてその少し先への予感としての開かれた先へと方向付けられる。より正確には、その踏み出す勢いがその先の何かを開き、方向付けとなるのだろう。

別に哲学的あるいは科学的な議論をしたいわけではない。幼児がその身近な環境に出会う様子を記述したいのである。その今を一歩踏み出す。そこに環境との呼応があり、気まぐれがあり、偶然があり、思いつきが促し、思いがけないことが起こる。そこに新鮮さが現れるだろう。

そこには型通りの行動や予定されたいつもの活動であり、時に昨日の続きであるにしても、そこにはそのような新たなことが生まれ、その新たなことへと踏みだし、踏み出すから新たなことが一層そうなっていく。それは「今」が揺らぎの中にあり、流動する中の瞬間であり、そこにその先への決定はできないからである。

とりわけ幼児はその統御より、その揺らぎにおいて生きている。統御がなされつつも、その先への大きな方向と切りかえのいわばギアは徐々に起こるのであり、それは半ばのことなのである。

その統御の不完全さは人としておそらく常にそうなのだが、とりわけ幼児はその不完全さが顕著であり、それがかえって新たな可能性をその一歩先の未来へと作り出す。それは例えば、何かを作りながら考え思いつき作っていくことであり、そのプロセスを生きることである。

朝の活動の開始を見れば分かるように、そこには昨日の続きはいつも曖昧にしか起こらない。ものを作ることと片付けることが一緒になっていることでもあり、新たに作り出すことが基本的なあり方となっている。昨日の活動の跡があろうと、それは痕跡であり、単なるパズルの続きをすることにはならない。

そして一歩新たに踏み出すと、そこでそれを通して生まれるものの配置は新たなものとなり、そこに未知の可能性が見えてくる。それをさらに踏み込めば次の可能性がまた多岐に広がるだろう。

幼児の世界はそのようにして、新鮮さに満ちている。新たな可能性の探究に常になっていく。遊びとはそのような新鮮さを充満させる営みなのである。そのようにして生きることは可能性を生み出し、その実現はさらなる可能性を広げることであり、そこに活動の豊さが生まれる。その新鮮な輝きは自分が世界の中にあり、その中で惑溺し、その感情を生きることである。

そこを振り返り、今後に向けて見渡すことを行って、その活動の流れが生起し、自覚され、方向付けることも増えていく。それは多様な活動を方向付け、ある制限を設けることだがそれに伴い、より焦点化した探究となり、深さの追究となるのである。

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いかがでしょうか。連日、遊んでいる子どもたちには、確かに、こんなことが起きていると思えるのです。3歳の子どもたちが「どんぐり祭りだ!」と多少ハメを外すように見えたとしても、それに遊びの本質が現れていて、自分がやったことから、またフィードバックが起きて、新たに現れてくる新鮮さに惑溺しながら、その楽しさを満喫している瞬間の連続なのでしょう。

ちなみに年長はその後、事務室にどんぐりの入った袋を冷蔵庫に入れて凍らせてくれと頼みにきました。

受動的な気づきから自覚的な気づきへ

2023/09/11

こういうことが、STEAMの基本なんだろうな、と思います。あれ、色が変わっていく、面白いな、という感じだったらしい。4歳児クラスの男の子。10月で5歳になる。こういうところに注意が向くようになってきたんですね。

私たちが「もの」の世界の法則(物理や化学や地学など)を理解していく学びは、本人がその世界が面白い!と感じながら、その世界に入り込んでいけるといいな、と思います。

いろんな刺激を受動的に受け止めていた乳児のころ。水や色で遊んできた体験のなかから、彼なりに、慣れ(馴れ)親しんできたとこ(現象)とは違うこと(新奇性)に気づいた(発見)したようです。それまでのこととは違う、新しいと感じることと同じような体験を重ねることで、ある種の規則(法則)を気づくのかもしれません。

以下は、9日の先生のブログです。8日の出来事です。

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絵の具遊びでスポイトを使っているうちに、だんだん水分が増えて「色水」になってきたので、そのまま水道台へお引越し。色水遊びになりました。

色水に、水道水が足されていくと、だんだん透明になっていく様子に気が付いた らんらん組のRくん。


「色がなくなった!」と、実験を繰り返していました。

(蛇口の下のカップの、水の色の変化に注目!)

 

真剣なまなざしです。

にこにこ組のAくんは、さまざまな色を作って、きれいに並べていました。

 


Rくんが、「これ、凍らせてみたい」とのことで、遊び終わったあと、冷凍庫へ。週明け、どんなふうに固まっているでしょう…!?カラフルな氷ができるかな?と大人もちょっと楽しみです。

大人が模造紙にクレヨンで絵を描くと、その上を絵の具で塗ってみる すいすい組(5歳クラス)のYちゃん。

「あれ?!塗れない〜!」と、クレヨンが絵の具をはじくことを不思議そうに発見していました。


Rくんも、同じように試してみます。

遊びの中でさまざまなことを発見し、不思議がり、試し、繰り返してみる子どもたちです。その子なりの世界の広がり方が面白いです。

ダンスで多様な体の動きを楽しむ

2023/08/30

保育の質を高めるためのアプローチの一つに、外部の専門家との協働があります。近所の海老原商店はアーティストの活動拠点になっていますが、そこで出会ったコンテンポラリーダンスの第一人者、青木尚哉さんのおかげで、保育にダンスを通じた活動が増えました。子どもは基本的に、体を動かすことが好きです。子どもたちが「十分に体を動かす楽しさを気持ちよさを体験し、自ら体を動かそうとする意欲が育つように」(要領・指針の「内容の取り扱い」)してあげたいと思います。

今年も7月から青木さんのダンスグループZERO(ゼロ)のメンバーが、来てくださり、全てのクラスで「多様な動きを経験する中で、体の動きを調整するようにすること」(同上)に広がりをもたらしてくれています。何よりも、私が感じるのは、プロの体の動かし方、なめらかな美しい身のこなしは、子どもたちにも伝わっていく気がします。今日は身体的なふれあいと併せて、赤ちゃんと見つめあったり、心のふれあいも楽しみました。今日のドキュメンテーションを、以下に紹介しましょう。

ちっち組(0歳児クラス)。二人のダンサー「いづみさんとももかさんの温かな関わりに心を許した様子の子どもたち。タッチしたり、どうぞをしてあげたり、ぎゅっと手を握り返したり…触れ合いを通して、心を通わせていました。」

ぐんぐん組(1歳児クラス)。「いづみさん達のダンスは決まった形や表現があるのではなく、子ども達が音楽と触れ合い、お友達や大人との関わりの中で自然と身体から溢れ出てくる表現を周りにいる人と共感しながら・・体を動かすことの楽しさを感じていけたらと思います」。

2歳児クラスのにこにこ組。「今日はいづみ先生とももか先生が来て下さり、ダンス表現遊びを楽しみました。 グーパー体操、ペンギン歩き、トンネル遊び、飛行機、お馬さん、走って抱っこ、ゴロゴロ遊びと、いろいろなメニューを楽しみました。少し緊張気味の子も、その様子を一緒に見たりしながら参加することができました。」

3歳児クラスのわいわい組の日誌には「Sくんは朝登園すると「ダンスやだ」と言っていたが、「やらなくてもいいよ、一緒にみてよう」と誘うと前向きにダンスに向かっていた。Rくん・Sさん・Lくんは「やりたくない」と初めは階段の所で見ており、その後はお部屋の中で見ている、端の方で参加してみる、と少しずつ近くで参加していた。Yくんは初めてのダンスだったが、前でやることを希望する等、積極的に参加しており、「合体トンネル」という新しい遊びを生み出した」とあります。

4歳らんらん組・5歳すいすい組の日誌。「今日は、いずみさん、ももかさんがきてくれて、らん・すいさんでダンスを楽しむ。気持ちが高揚していたのでダンスが始まる前は、わらすみんなでイス取りゲームを楽しむ。イスの取り合いでらんすいさんたちが、ヒートアップする場面もあったがリズムに合わせて存分に身体を動かせていた。ダンスでは、二人にリクエストする、らんすいさんが「マネキンやりたいー!トンネルやりたいー!」とやれる喜びを感じていた。」

子どもたちの運動はできるだけ毎日、全身的で、偏りのないバランスのとれた動きを大切にしています。ダンサーの方々との運動は、音楽やリズムも心地よく、頭から足先まで、美的なセンスも配慮した動きになっているのが子供たちにとっても魅力的なようです。

遊具や装飾作りのお手伝い

2023/08/29

毎週火曜日は、年長すいすい組の「お手伝い保育」でした。事務所担当の私は、来月から使い始める天体望遠鏡を棚から降ろして、その使い方を説明しました。それだけでは面白くないので、玄関からレンズ越しに遠くの建物を見せました。カレー屋の看板や道路の交通標識などが「見えた!」「でっか!」など、はしゃいでいました。

もっといろんなところを見たいと言うので、3人を園外に連れ出して、隣のビルの1階から神田川を挟んで、北側の和泉橋やヨドバシカメラなどの方面を観察してみました。

続いて先週から作り始めた光遊び用の「色セロファン」での形カードづくり。前のチームは三角と四角を切ったので、今日のチーム3人は「丸」と「好きな形」にしました。

「好きな形」となると「ハート(マーク)がいい」というのですが、ハサミではうまくその形になりません。そこで二つに折って「つ」の字に切るとハート形になる切り方を教えました。切る線をマジックで書いてあげ、その線に沿って切ってもらいました。そしてラミネートをして、ライトボックスの上に乗せて、色の変化を楽しんでいました。

こんなことをしていると、体を動かしくなったので、散歩に行くことになりました。でも今日も外は暑いので運動ができません。そこで神田川を挟んで向かい側に立つ和泉橋出張所の中を探検した後、その隣の書店に入って絵本コーナーを見てきました。

最後に、水鉢に浮かべていたほおずきを洗って浮かべ直しました。もうすぐ葉脈だけになった「透かしほおずき」ができそうです。

「作る」を経て「使う」へ

2023/08/22

今月8月から年長組による週1回の「お手伝い保育」が始まりました。今日は事務所担当(つまり園長担当)の2回目でした。年長の子どもたち9人が3人ずつ0〜1歳、2歳、事務室に分かれます。私のところにはKさん、Yさん、Sくんの3人がやってきました。私は主に生き物のお世話や、教材作りを手伝ってもらいます。

今日の教材作りは2つ。一つは、階段に掲示してある「お月様」に、「きのう」「きょう」「あした」の三匹の「たぬき」を作ってもらうこと。もう一つはライトボックスの上で、図形を並べて遊ぶための遊具です。

「たぬき」は「今夜はここだよ!」と教えてくれるためのものですが、そういうものを作ってほしいというと、わかった!こうするといいよ!と張り切って作り方を話し出します。「画用紙にたぬきを描いて、切って、周りをセロテープで貼って・・・」。「そうそう。じゃあ、テーブルを用意しておくから準備して」というと、早速、クレヨンと画用紙をクラスへ取りに行きます。

絵本「つきよ」に出てくるたぬきをモデルに描きます。できた絵は、透明な名前ケースに入れて手すりに結びつけて、ずらせるようにしました。

百均で買った色セロファンを、ハサミで四角や三角の形に切り、ラミネートをします。ヒラヒラして柔らかく、手につきやすいセロファンをハサミで切るのは難しいのですが、私がマジックで引いた線に沿って切り抜いてくれました。ラミネートをかけるところを見たのは初めてらしく、触っていい場所を確認したり「出てきた!」「あったかい」など気づいたことを色々話してくれます。

赤、青、黄、緑の4種類の四角、三角ができました。すかしてみると「おもしろい」「ねえ、みてみて。赤いよ」と、その色で見える景色を眺めています。机の上に乗せて見るのと、明るい場所にすかしてみるのとの違いなどを、色々と気づいてくれたら。ライトボックスは7月の納涼会でも使ったので覚えているらしく、明るさを変えたり、できた図形を並べてみたりしました。早速、重なったところの色が変わることをしばらく楽しんでいました。

この教材作りは、3人ぐらいでやるのがいい。光遊びの遊具は、すでに同じようなものが市販されているのですが、それを「使って遊ぶ」に留めず、あえて「作ってみる」ことで、それが出来上がるまでに、予想しなかった仕組みに気づいたり、難しいことに出合ったり、どうやったらできるかを考えたりする機会になります。子どもたちもそこが面白いようです。

 

運動の中の「美」を体験する

2023/06/28

今年で4年目を迎えるコンテンポラリーダンス。今年もその遊びが始まりました。子どもたちに指導してくださるのは、子どもたちが大好きな青木尚哉(あおき・なおや)さん、芝田和(しばた・いづみ)さん、木原萌花(きはら・ももか)さん。ダンスと言っても何か決まった振り付けがあって、それを覚えて上手に踊る、というものではなく、自分の身体を気持ちよく動かす回路を開いていくようなものです。乳児から幼児まで、全てのクラスで楽しみました。

乳児の子どもたちとは、まずダンサーの方々と親しくなることから始めます。いつもの歌を歌ったり音楽に合わせて体を動かしたり。普段の遊びを一緒に楽しみました。この人たち、誰だろう?という感じから、すぐに慣れていってくれました。にこにこさん(2歳児)たちとは、膝の上にのってヒコーキになって跳んだり、ペンギンになって歩いたり。わいらんすい(345歳)になると、バリエーションが増えます。

じゃんけんのぐーやパーの形(格好)を顔や手や足や全身で表す「グーパー体操」。相手とてのひらを重ね合わせる「やさしくタッチ」。それを歩いたり走ったりゴロゴロ転がったりしてやります。タッチの代わりに「ぎゅー」になったり、「高いたかい」になったりと触れ合い方は様々に変化。これらは自分の身体が人と触れるという、関わり方のバリエーションの広さに改めて気づくことになっていきます。

青木さんのダンスの面白さは、それが「よくなること」が、自分の身体と周りとの接触の仕方や度合い、距離感というものに敏感になっていくこと、その感覚の解像後が高くなっていくことが「よさ」なのです。その運動の代表が「ポイントワーク」という青木さんが開発したメソッドです。例えば「マネキンとデザイナー」は、片方がマネキン(人形)役になって、もう片方がデザイナー役になります。そしてデザイナーがマネキン役の体をゆっくり優しく動かすのです。

子どもたちは身体の骨の模型を見せてもらっており、体には骨があって、関節のところで動くことを学びます。それ以外のところは動かないことを体感します。音楽に合わせて1、2、3・・・と数えながら、デザイナーはマネキンの手や指や腕や胴や脚や踵などを動かしていくのです。10まで数えたら、つまり10回手や足や頭の少しずつ動かして、最終的には「いい感じ」の格好を作り上げます、そして、その格好をデザイナーも真似ます。

ダンスのためのオリジナルわらべうた「鬼さん鬼さん何するの?」は、円陣を組んで鬼が「これするの」と応えると、みんなもそれと同じ動きを真似します。輪になって並んでいるので、順番に「これするの」をやる番が回ってきます。どんな動きをしようかなあと考えながら、思い切って動いてみると、どんなものであっても、それが表現として受け止められていきます。即興的に考える創造力、それをみんなが真似する面白さ。その中に、格好やポーズのかっこよさや美しさが垣間見あられるのです。慣れてくると、早く自分のところに来ないかなあというようになっていくのがわかります。

鬼ごっこやわらべうたでも、体を動かしますが、その関連を調べてみると面白いことがいろいろ見つかります。例えば「わらべうた」を「遊び方」と「隊形」で整理されているものと比べると、青木さんとやっている運動と重なり合ったり、独立している領域が見つかったりします。

やっていることは違うことだと思っていても、身体の関節が動いている運動であること、それと同時に起きている身体「感覚」の体験は、重なり合っているのです。

その運動の起点となっている前後の動機やイメージなどは、移り変わっていくのですが、その連続性の中に「美」がいたるところに見出されるのが、ただの運動ではなく、アーティストであるダンサーの作り出す運動の楽しさです。何度も楽しんできたものなのに、今回の「マネキンとデザイナー」の動きの中に、主任はいたく感動していました。「青木さんたちがデザイナーをやると、違う。10カウント目の最後の動かし方で、ドキッとするくらいよくなる」と。それはきっと子どもに伝わっています。あんなふうに自分も「やる、やる」と、デザイナーやりたいという顔にそれを感じます。

さらに「なるほど」と思う感想を主任からもらいました。「これって、感覚統合からみると、とてもいい運動になっていると思う。そして主体性ということでは、マネキンの方がやらしてあげていて、デザイナーと対等じゃないか」と解説してくれました。自分の身体が教材や環境になっていく協同的活動としての遊び、とでもいうのでしょうか。

小さなアーティストたち~表現の前の居場所をめぐって~

2023/05/04

この時期は、新しく入園した子どもたちが慣れてきたかな、と考えることが多い。親御さんもそうですよね。すっかり先生たちに抱かれて「あっち」とか「これは?」とか周囲に目を向けて世界を広げている赤ちゃんたち。私を目を合わせるとにっこりして手足を動かしてくれる子も。乳児にかぎらず幼児の子たちも、友達と一緒に遊ぶのが楽しそうです。

わたしたちはよく、慣れていく話の中に、そこが子どもにとっての「居場所になる」という言い方をよくします。居場所になるといういい方は、ちょっと大事なニュアンスを含んでいるように感じます。人によっては「居場所づくり」のような、何かスローガン的な使われ方をすることもありますし、そうなっていなことがとても大事なものを失っていることを示しているようです。

子どもたちが園生活に慣れていくこと、馴染んでいくことと、その子たちにとっての居場所になることとは同じなのでしょうか。違うのでしょうか? 居場所になる場というものは、空間とはちがうのでしょうか?物が置かれている空間やスペースとはどうちがうのでしょうか?

このGW期間に帰省されている方も多いでしょう。そこはご自身やご家族にとって故郷だったり生まれ育った場所だったりするかもしれませんね。懐かしさというものはその場所に行けば、あるいは思い浮かべるだけですぐに感じるなにかですよね。それほど私たち一人ひとりにとって、ある場所とそうでない場所は、はっきりと異なりますよね。物理的に見れば同じ空間であっても、人によって意味が違ってきます。

それと同じ連想で家庭と保育園の空間が、それぞれ愛着ある場所になっていくとき、好きな場所にかわっていくとき、そこがその子どもにとっての居場所になっていくのかもしれません。昨日の画家もそうですが、その画家にかぎらず多くの芸術家は、活動の拠点を探して変えています。モネなどはセーヌ川の水を引き込んだ池まで作りました。その池にかかる太鼓橋は、日本の浮世絵にでてくる風景からの影響だといわれています。

私が20代の頃、あるレストランを一緒に取材したカメラマンは店主に「ベストシナリーはどこか?」と必ず聞いていました。カメラマンからの風景と、店からの「ここです」は、たいてい一致しました。そしてそこに座る客にとっても、そこからの眺めが心地よいこととも通じていました。限られた雑誌のページに、店の特徴や店内の雰囲気をもっともよく表す一枚と料理を撮影するのに相当の時間を要しました。

保育園ができたとき、設計した建築家は、2階のガラス窓から外の風景を展望できる一角が、「子どもにとって、ここが人気の場所になるはず」と言っていました。確かにそこは、ここに子どもは基地づくりはおうちごっこをしたがる場所です。狭いこと、隅っこであることもありますが、景色を含めた「居心地のよさ」というものは、子どもに多くの意味を伝えているのでしょう。

ギリシャ語で「場」のことをトポスといい、物の本によると、その言葉の使われ方は、記憶などの何かを喚起させる場所のことで「いつでも使える何かが埋まっている可能的なプレイス」という説明がされていることもあります。私はアキハバラ近くの万世橋を歩くと、ある夏のシーンをリアルに思い出すことがあります。不思議なことですが、そこを歩きながら聞いていたポッドキャストの内容や音楽まで蘇ります。いつもとは限りません。ある情感とセットでよみがえる、ある種の質感(クオリア)です。

それとはちょっと違うのですが、安定的に定着している子どもの頃の思い出は、トピックスになって場面として映像的に記憶されています。こちらは大人になってから、本当にそうなのか怪しいものだと疑いながらの思い出です、というのも聞かされた話と混ざってしまっているからです。

この思い出したり、意味に気づいたりすることを駆動させているものを、ちゃんと調べたり考え抜かれてきた哲学的な歴史があること(アリストテレスから現代に至るまでの思考方法の開拓者たちによる)に気づき、それは修辞学的には「トピカ」と呼ばれてきたもので、場(トポス)に働きかけて引き出す働きを担っているという。そういう見方ができるのなら、トポスとトピカの相互共役的に働くありかたは、芸術家が場所からインスピレーションを得ているありかたとそっくりだと思います。

その働きかけをアルス(アートと言われる元の言葉)といってきたのだから、子どもが無自覚に突き動かされているのかもしれない遊びのなかにあるものも、芸術家が場所をかえて作品を創り出そうとしていることと、同じような何かかもしれませんね。子どもの姿を捉えて「小さな科学者」ということがありますが、室内をうろうろしたり、遠くを眺めてぼ~っとしているときにも「小さなアーティスト」たちが活動しているのかもしれません。そんなときは、大事なアルス・コンビナトリア(と、いうらしい。アート的な表象の結合術ということ)の最中かもしれませんよ。

線と色の葛藤のはてに

2023/05/03

多くの人が自分の時間に新しい意味を見出したいと思っているんじゃないだろうか。どうして休みになると出かけたがるのだろう。家にいるのがつまらないわけでもないだろうけど、新しいことをしたがるようにみえる。人々を動かしているそのエネルギーは植物の繁殖力とはちがう。人間の自由に関わる精神的な運動の在り方だろうか。

そこには、それは大人らしい好奇心と、プラスアルファの何かは人によって異なるものがありそう。私は家族と都内の美術館に出掛けてみた。有名なフランス人の画家の大規模な展示会で、新しい発見があって面白かった。芸術家もまた比類なき探求者で、その変化は絵画の時代的革新に関する要請に自覚的な、じつに敏感な意識的な変化であり、印象派が臨んでいたデッサンと色の葛藤を彼もまた抱えていた。線と色。実際に没頭して試みて、離れていく。筆色分割も散々やってみた挙句に次へと。

その変遷がよくわかる展示になっていて興味深いものだった。彼は大きな転換点には彫像に取り組んでいる。スタイルが変わるのは探し求めている自分に合った表現方法をみつけるためだということがよくわかった。デッサンという組本に同じテーマで異なるバリエーションをいくつも描いている。そこから何かをつかみ取ろうとしている。いくつもいくつもやってみて、そこから得る次の展開へ。この順番。そして体が不自由になると切絵にたどり着く。へえ~!コラージュなんだ。私はびっくりした。彼は色そのものを自由に扱える感覚があったそうで、そこに自己と表現が一致していくものを感じ取ったらしい。ああ、これも愛と知の循環だ。

こうやって、いつも思うのは芸術は繰り返し楽しむことができるということ。そこに立ち戻ることが目的と手段に分離しないこと。子どもの遊びに似ているように思う。そこにある創造と休息は命のリズムそのものであって、仕事と休暇ではない。そんな風な時間がいいなと思いながら、疲れてロビーのソファーにしばし座った。そうか、リフレクションは子どももやっている。振り返りはお集まりの時間じゃなくてもいいし、ソファーにごろごろしながら、大事なことを思い出したりしている。堀真一郎さんも同じことを言っていたことを思い出した。教室にはソファも必要だ。

絵が人の肘掛け椅子のようなものであったらという(先の世界大戦中の中での話ですが)、こんな探求もあると思うと、人間のやっていることが、他人のことなのに、なんだか人生がいとおしくなってくる。

ワールド・クラスルームヘようこそ

2023/04/29

ちょうど子どもの「言葉の獲得」について調べていたので、冒頭の展示から引き込まれた。本物のジャベルの左側に写真のシャベルが並び、右側には辞書のシャベルの定義が文章で書いてある。この3つが合わせて一つに作品になっている。

まさしく三項関係である。これがアートになっているのは、作者のジョセフ・スコースがアートの本質をコンセプトにあると考えているからだ。この3つの要素はどれも表象だが、そのどれ一つを欠いても、アートにならないとスコースは考えた。展示の解説も図録もそこまでしか書いてない。しかし次のようなことを考えると、保育がアートになる境目というか、関係性によって3つの要素が明らかな者にとって、それは作品となるだろう。以下はこの展示のスコー スの発想からインスパイアされた私のアート論である。

どんなアート作品でもいい、その作品Aが何かBを表しているとしよう。宗教画でも歴史画でも人物画でも風景画でもなんでもいい。これは絵画に限らない。彫刻でも建築でもなんでもよい。小説でも俳句でも映画でも音楽でもなんでも。物象化しているものならなんでもいい。どんな現代アートも含まれる。その時なんらかの説明に相当するCがあるから、アートはアートたりうるのだとスコースは考えたに違いない。

もし作品Aが、誰がみてもそれとわかるシャベルじゃなくて、「無題」と題した何かの物体だとしよう。それでも、人によってはそこに何かを表象してしまう。つまりBがそこに存在してしまう。AとBの間の関係性はCが補完するとき、その時にAはアートになるのだ。なんでもないものがCの説明つまりコンセプトの生成がアートの条件ということになるだろう。それなら保育の風景の中に、それは無限に存在することになる。それは一見するに、アートらしいという私たちの概念とは全く異なるものだ。それらしいものに描かれたものが作品で、そうではないものが無視されてしまうだろう。私がみている風景の美しいと感じたものを写真にとりインスタにアップしているものも作品である。

極端なことを言えば、赤ちゃん自身がぼんやりとした風景の中に、母親の笑顔を見つけた瞬間の映像を、そのまま物象化することができれば、それもまた作品である。赤ちゃん本人にその意思がない限り、アート宣言はできないだろうが、保育者がその関係の中にコンセプトDを持ち込み、それがコンセプトC の代理であるといった展開なら可能なのかもしれない。保育では実際にそういうことをやっているのではないか? 子どもの描いたものは大人が描いたものよりもアート性があるとか、なんとか。

ということは、同じ風景であっても見る人によってそれは作品となりうるAとBの関係にCのコンセプトを意識できるかどうかにかかってくるということになるのだが、こういうことはすでにどこかできっと論じられていることだろう。なぜなら、このコンセプチャルアートは1960年代からあるものだから。それでも私はもっと深掘りしてみたいと思う。

ワールド・クラスルームは、こんな調子で国語・算数・理科・社会と続く。写真は理科のナフタリンで作った靴。展示ケースの中で揮発して再結晶化したもの。靴が再結晶していく過程がアートになっている。なんと美しい理科実験だろう。

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