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保育アーカイブ

子ども集団の多様性を就学後へのつなぐには

2023/08/10

研修会で考えたことの続きです。就学前と就学後では「子ども文化」がどう変容するのだろう? この夏休みになると卒園児がボランティアに来ています。今週も数人が活動しています。子どもへのかかわりがとても上手です。それこそ見守り上手、援助上手といっていいでしょう。

それと併せて、月曜のGTサミットで語られた、卒園児の保護者である渡邊さんの話も思い出します。「小学校入りたての頃は学校の先生がたは、色々な意見を言うので面倒な子たちだと思っていたみたいですが(笑)、少し経つと言わなくても自分たちで考えてやっていく子どもたちだと見方が変わっていくんです」。

ギビングツリーのメンバーはデュディス・リッチ・ハリスの考えも学んできました。彼女がいう意味で、私たちは子ども集団は、子どもの社会化の主たる要因だと考えているのですが、そこを大事にしたときに、卒園後に学校に適応できる場合と、そうでない場合があるのはどうしてでしょうか。子ども文化の多様性が失われてきている可能性はないでしょうか?というのも、次のようなことが考えられないかと思うからです。

子どもが主役というときに(こども家庭庁は、それを「こども真ん中社会」と呼んでいますが)、就学前と就学後にはある種の多様性の幅が変わってしまうのかもしれません。園生活は子ども集団の中で、誰もが主役になれるような価値の多様性、優劣の多様性が異年齢生活のなかにはあるような気がします。

子どもは、だれもがその関係を嗅ぎ分けて、その関係のなかで自分らしさを発揮できること、見つけること、選ぶことができるようにしています。興味や関心が赴く先や、安心していられる居場所がそれぞれに選べるのからです。いわば生活空間がオープンであり、安心できたり、物事を探求したりできる空間と友達関係が開かれている、という言い方ができることかもしれません。

それに対して、学年やクラス、学習内容や学習方法の枠組や方向性がある程度はっきりしている学校の空間のなかでは、子どもによってはそこに馴染めにくい要素があるのかもしれません。その要素の一つは子ども集団のなかに、その子の主体性を発揮できる関係の多様性があるか、といった視点で見ることができるかもしれません。たしかに勉強を中心に秩序づけられている生活に比べて、もしかすると人間関係や子ども文化といったことが、狭くなるのかもしれません。

園生活には子どもの間だけで通じ合う表現や自慢の遊び方があったり、誰にも負けないゲーム、今度こそ食事の配膳で自分が一番に並ぼうと思えばそうできる見通し、悪ふざけができる空間、一人でぼんやりと外を眺めていられる場所、多少羽目を外しても許される空気、甘えを肯定的に受け入れてもらえる先生の存在。そうした子どもなりの戦略や子どもたちがつくり出す習慣や隠し事なども、許容されているという面があるのでしょう。

園児たちは自分と同じくらいか、ちょっと歳がうえで自分にはできなそうな、でも魅力的と思えるものをどんどん模倣して自分のものにしていきます。その影響力は大きく、親も先生も教えていないし身の覚えのないことも、子どもがやっていることから学んでいることが結構あります。たとえば昨日の1歳児クラスのブログには2歳児クラスで遊んでいる3人の様子が描かれていますね。3歳のお兄さんがマグネットでつながる電車をつなぎかたを見せてあげているのをみて、別の1歳児もレール遊びに加わっていく様子が描かれています。

また幼児のブログにはこんなことが書かれています。

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今朝のちょっとほっこりしたエピソードです。
わいわい組(3歳児)のKくんが、『おしりたんてい』の本を読んでよ〜と大人のところに持ってきたのですが、そのタイミングに、ほかのことで手が離せなかったので、「ちょっと待っててね。。」と言うと…
そばにいた らんらん組(4歳児)のMくんが「ぼくが読んであげようか?」と、頼もしいひとこと。
Kくんも、「うん」と嬉しそうです。

その後のやりとり・・・

Mくん「でも、あんまり読めないかもしれないな〜。」

Kくん「じゃあ、読めるとこだけで大丈夫だよ。」

そうして、仲良く本を読み始めたのでした。

ふたりの、お互いを思いやる かわいらしい会話にほっこりした朝でした。

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こういうことは小学校でももう少し「あり」だと思うのです。学童では実際にあるでしょう。子ども集団のもつ力ということを考えてしまいます。

 

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