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AIと保育

保育ドキュメンテーションのAI活用

2026/10/07

毎日のようにお届けしている保育ドキュメンテーションがあります。

これは、できるだけ子どもたちの姿を写真に残し、その瞬間に見せてくれる「輝き」を残しています。AIによる写真や動画の「読解力」は日々向上しており、そこに現れている事実から、いろいろな視点で読み取ることができるようになってきています。

たとえば文章や写真や動画で、積み木遊びの変化が記録されていたとします。数ヶ月あるいは半年ほどの期間の間に、自分の好きなものを作っている姿から、一緒に遊んでいる姿に変化していたとします。その記録や写真から「それぞれの制作から、友達の工夫を取り入れ、共通の構想を相談する活動へ広がっている」という事実をみつけだしてくれるなら、それを「10の姿」の「協同性」が育ってきたといえるでしょう。

子どもの育ちというのは、その瞬間を切り取って見えるものだけではなく、時間的経過を経て初めて見えてくるものです。そもそも、そういうものだからこそ「育ち」とか「発達」とかいうわけであり、変化しなければ、豊かさや深さがあるといえなくなります。いつ頃に比べて今は、こんなに大きくなったね、できるようになったね、考えが深まったね、お友達のことも大切にできるようになったね・・・などなど。

その変化のプロセスは、一人ひとり異なるので、さらに個別の記録がどこまで残っているかが、振り返りの材料としては大切になります。この1年間でこんなに成長したね、といことを確認しあうのが年度末の「成長展」です。そのときに、一人一人の成長がよく見えるように、日々の保育記録や保育ドキュメンテーションを振り返って分析するために、AIが活用できないかと、検討を始めました。

保育における生成AIの活用と留意点

2026/10/06

生成AIを活用することのメリットと、デメリットをしっかり認識しておく必要がありそうです。保育ではどう整理しておくといいでしょうか?

メリットの方は、私の周りでも見られるのは、議事録の作成が簡単になったこと。過去のデータの整理が短時間で済むようになったこと、事務作業のなかで書類を作ったり、一部の事務作業を任せたりできるようになったこと。生成AIはこういうことが得意です。ビジネスの場面では、もっと広範囲に活用されていることでしょう。

たとえば今後、保育計画や保育記録などの文章をつくるさいに、下書き、要約、言い換えなどの負担を減らせることでしょう。しかし、その一方で自分で考えをまとめて言葉で表すというプロセスがなくなることへの危機感を覚えます。あいまいな表現であっても、その先生らしさが現れた文章の方が、その子どもとの関わり方が目に浮かび、味わい深いものを感じます。

また記録を整理し、子どもの変化や継続している関心を捉える助けになります。保育は振り返るために記録をとり、その振り返りから、望ましい保育方針を立てていきます。先週のことを振り返るのはそれほど難しくありません。先生のなかに具体的な記憶があるからです。しかし2ヶ月前、半年前となると、何かの記録に頼るしかありません。そのために保育記録があるのですが、その振り返りを助けてくれるでしょう。

しかし、デメリットがあります。それは「書かれた情報だけで解釈するため、その場の表情や間、身体の感覚が抜ける」ということです。保育はこの「言葉にならない身体感覚」で子どもを理解していることが多いのです。子どもの声、表情、身体的ふれあいなど、五感を通じた関わりのなかで感じたり気づいたりすることが、子ども理解のベースになっているといってもいいでしょう。

それは一人ひとりの子どもについてだけではなく、集団についてもいえます。保育には、場を語る表現が多くあります。落ち着いている、賑やかである、集中している、活気がある、生き生きしている、わくわくしている、のびのびしている、などなど。保育空間に流れる雰囲気を、敏感に感じ取りながら、集団のもっている心地よさや緊張感などを調整してくのが保育士です。先生の声やわらべうたや、絵本・紙芝居の読み聞かせ、運動や外遊び、お集まりなど、保育のリズムもそうした保育の場の変化を捉えながら、作っていくのです。

そうすると、生成AI を使って保育を振る変える際に気を付けておかなければならないことは、「少ない情報から性格や発達を限定しがちな文章が生まれることがある」ことです。これは記録が少ないほど、危険だと言えるでしょう。

ただ、先生がそれを読んだ時に、的外れな表現になっていたら、違和感を覚えるでしょうから、いくらでも修正がきくはずです。普段から一緒にいる先生にしてみれば、ましてや複数の先生が多面的に子どもたちをみているチーム保育の体制なら、おかしな子ども理解になることはないでしょう。

自分の手と身体で確かめる子ども

2026/10/05

「保育と生成AIの関係」について考察しています。では、この問題が乳幼児の環境にも当てはまるのでしょうか? もちろん小さい子どもがスマホなどでAIを使いこなせるような状況までは来ていません。ここで対象となっている「子ども」は年長さんぐらいから小学生以上の子どもたちでしょう。もちろん油断はできません。小さい子どもがひらめいたことを、何らかの仕組みでAIが拾い出し、子どもの探究プロセスを飛び越えて「答え」に導く、といったことが出てこないとは限りません。

それでも、生成AI の登場によって、これまで保育で大切にてきたことが、より鮮明になってきたように思います。どいうことでしょうか?

それは子どもの行為するということの大切さです。経験といってもいいです。これは当たり前といえばそれまでですが、混同されないように、ここに明確な一線があることを確認しておきたいのです。

それは子ども自身の発達は、子ども自身が脳と身体を使うことでしか、成し遂げられないといことです。その代わりは何が登場しようと置き換えることはできないのです。身体的発達も心理的発達も、社会的発達もそうです。歩行の確立、言葉の獲得、基本的生活習慣の確立、人との関わり方、決まりや社会性の獲得・・などなど、どれひとつとっても、何かが代わりにやってあげることでは育たないのです。

そこで子ども自身の行為と経験を促すために、生成AIを大人が活用することの検討が始まっています。たとえば子どもとの対話の相手として、うまく行為を引き出し、望ましい経験が起きるように支えていくことも可能かもしれません。もしそのような使い方ができるなら、生成AI の機能を活かした、上手な教育者、学びの伴奏者、探究のコーディネーターになりうるかもしれません。

子どもに依存をうむSNSの機能、世界は規制へ

2026/10/04


SMSによって、自分で選んでいるかのように見えて、実は誘導されているかもしれない、という話をしました。

・・・画面に出された選択肢や候補の中だけで選び、薦められた順番で見て、反応しやすい感情を繰り返し刺激されます。・・・いろいろなバイアスがかかっていることに、気づきにくくなります。

こうして選択の自由は残っていても、選択する自分が少しずつ設計されていくのです。・・

このことの被害が認められた裁判を調べてみました。

今年3月、米国カリフォルニア州ロサンゼルス郡の裁判所が下した裁判が大きな話題になりました。幼い頃からインスタグラムとユーチューブを使い続け、自分の容姿に対して強い不安を抱くようになり、抑うつに苦しむようになった20代女性が、米国のメタ社とグーグル社を訴えたのです。その結果、裁判所は双方の会社に合計600万ドルの賠償を命じたのです。

注目したいのは、争点になったのは、投稿の内容ではないということです。それが際限なく表示される「無限スクロール」や「アルゴリズムによるおすすめ」が流れてくる仕組、動画が「自動再生されてしまう機能」の方なのです。

さらに今年8月には、メタ社はSNS依存をめぐる一連の訴訟で莫大な金額の和解金の支払いに応じて、今後18歳未満の子どもはインスタグラムとフェイスブックを合わせて1日2時間までしか利用できない初期設置が施され、深夜0時から朝6時までは利用そのものができなくなるような機能になります。

このようなソーシャルメディアの規制は、すでに世界的な潮流になっていました。オーストラリアではすでに昨年12月から16歳未満のSNS利用を禁止しました。また上記の依存を生むような機能そのものを制限しようと、たとえばEUは13歳未満は原則利用禁止、13〜15歳は1日1時間まで、などの規制を事業者に課す法案を審議しているようです。

こうした潮流のなかでの生成AIの登場です。

オープンAIもすでに訴えられていました。チャットが未成年者に心理的な依存をうみ、それが自傷行為や自殺につながったとされる訴訟がいくつも起きています。こうしたなかで先月9月、ニューヨーク市が中2までの公立学校での生成AI の利用を1年間だけ原則禁止して、その影響を検証することにしたというニュースが流れてきたわけです。

さて、日本はどうするのでしょうか?このテーマの有識者会議が議論しています。どのような方針が出されてくるのでしょうか?

 

知らない間に設計されていく私

2026/10/03

これまでの話を振り返ると、AIを使っていると、だんだん、知らないうちに自分の主体的な思考や判断や表現が毀損されていく、というプロセスを説明してきました。ところが、お気づきの方も多いでしょうが、この話、これまでも散々聞かされてきた話と、とてもよく似ています。

そうです、メディア一般のなかで語られてきたことと、そっくりなのです。私は昔メディアのなかで働いていたので、そのことはよくわかるのです。AIを待つまでもなく、新聞、ラジオ、映画、テレビ、インターネット、SNSで言われてきた危険性とそっくり同じではないでしょうか?

これはAIだけの問題ではなく、メディアが人間の注意・欲望・判断を、本人に気づかれないまま形づくる問題なのでした。

ただ、これまでのテレビや映画などの従来のメディアとAIには大きな違いがあります。それは付き合い方の違いです。

テレビや映画では、基本的に同じ作品が多くの人に提示されます。一人の受け手は影響されても、ほかの受け手は異なる受け取り方をすることが、時間的な差はあっても確認できます。距離を取って批評したり、他人と感想を比べたりできるのです。新聞の社説の読み比べ、テレビ時評、各種の論壇、などがメディアそのものに載っています。

ところがAIやSNSは、一人ひとりの反応を学びながら、その人に最も響く内容を返してくる。しかも、一見、私たちが主体性をもって、私たちが問いかけ、選択し、操作しているように見える。だから、

「自分で選んでいる」という感覚を残したまま、選び方そのものを誘導される

ことが起こり得るのです。

これは単純な「洗脳」よりも捉えにくいものです。本人は命令されているとは感じないし、禁止もされない。警鐘を鳴らす人がいても、聞こえてこない。むしろ選択肢は増えているように見えるでしょう。

しかし実際には、画面に出された選択肢や候補の中だけで選び、薦められた順番で見て、反応しやすい感情を繰り返し刺激されます。好みではない感情を引き起こしそうなものは、無意識のうちに見ない、選択しなくなります。いろいろなバイアスがかかっていることに、気づきにくくなります。

こうして選択の自由は残っていても、選択する自分が少しずつ設計されていくのです。

ちなみに、忘れてはならないのは、この主体的な思考や判断や表現というのは、私たちが保育の中で、あるいは日本の学校教育の中で育てている「資質・能力」の3本柱の一つ「思考力・判断力・表現力」と同じです。平たくいうと学校の通信簿の評価項目になっています。教育現場で子どもたちからAIを上手に使うためのポイントがここにあるのではないでしょうか?

AIで主体性を拡張できるか、それとも代行されてしまうか?

2026/10/02

AIとの付き合い方は道具として使っているときはいいけども、第2段階なら「主体性の拡張」として利用価値が高いのですが、だんだん、何かの判断まで任せるようになっていくと、第3段階の「主体性の代行」になっていってしまうのでは、というのが前回の話でした。

しかし、厄介なのは、その境目がはっきりしないことです。

たとえば、AIから「こんな見方もあります」と材料が提示されます。私が自分の経験と照らして「いや、そこは違う」「これは使える」と選び直したり、修正したりします。これは第2段階で、AIとの対話によって、私は自分の考えがより明確になっていると感じ、AIが有効だと肯定します。

一方で、

AIがそう言うなら、たぶん正しいだろう
うまくまとまっているから、このままでいいだろう

とだんだんなっていくと、自分の違和感を確かめなって、第3段階へ入り始めるかもしれません。これはまずいです。AIの文章は流暢なので、間違っていても「完成した考え」に見えやすいのです。ここが普通の道具より危険なところではなないでしょうか。

AIは、かなり自信たっぷりに、ほかの考えはないかのように肯定したり、場合によっては褒めてきたりして、知らないうちに、誘導されている可能性もあります。いや、こうじゃないか!と突っ込むと、あっさり修正したりします。このやりとりがないと、とっても危ういのです。

さらに、判断を任せる以前に、何を問題として考えるかまでAIに決めてもらう危険性も出てきそうです。人間が答えを手放すだけでなく、問いを立てる力まで弱くなるかもしれません。ワープロ(って、若い方には分からないそうです、ワードプロセッサー)が出てきた以降、漢字が書けなくなっていることを実感します。それと似ていますが、とても気づきにくい。

この違いは、子どもの主体性を育てる保育と、そうでない保育の違いとも重なる話なのです。

保育者が子どもの活動を豊かにする環境を用意し、言葉を添え、別の可能性に気づかせるのは「主体性の支援」です。しかし、大人が先回りして目標を決め、手順を示し、望ましい答えへ誘導すると「主体性の代行」になるからです。

AIとの関係もほぼ同じに思えてきます。この差をAIが表にしてくれました。

主体性を広げるAI 主体性を代行するAI
選択肢を増やす 結論を決める
問いを深める 問いを奪う
違う見方を示す 正解らしいものを押し出す
人間が経験と照合する AIの流暢さを根拠にする
最後は人間が引き受ける 結果だけ人間が受け取る

このように考えると「最終決定を人間がしたか」だけでは不十分なことがわかります。AIが示した案をそのまま選ぶだけなら、形式上は人間が決めても、実質的には代行されているかもしれません。

大事なのは、

AIとの対話を経たあと、自分の考えが以前よりよく見えるようになったか。それとも、自分で考えなくても済むようになったか。

という見分け方ではないでしょうか? 一度得た結論までのプロセスや思考の筋道を再現できるかどうか?子どもたちは「ごっこ遊び」で再現し、そのプロセスを見事に習得していきます。見ているだけでは身につかないのです。実際にやってみることが遊びなのです。

ここまでの話をAIに問うと、さらに次の問題があると、説明してくれました。

AIの性能がさらに上がり、その人らしい文章まで先回りして完璧に作れるようになるので、実はもっと注意が必要になります。便利さが増すほど、違和感を覚える機会が減っていくでしょう、というのです。

したがって未来の問題は、「AIを使うか、使わないか」ではなく、

AIに考えてもらうのか、AIと考えるのか

にあるのでは?と。

そして「AIと考える」ためには、ときどき立ち止まって、反論し、書き換え、現実の経験へ戻ることが必要になるのでしょう。

もう、お分かりだと思いますが、これは保育者の役割にも似ていますね。よい保育者は子どもに代わって生きるのではなく、子どもが自分で世界と関係を結ぶための応答的な環境になることです。AIは、その人の代わりに考える存在ではなく、あくまでも主体者の心が動き出すための環境の一部にとどまっていること、なんでしょうね。

AIに任せていると主体性が蒸発する

2026/10/01

私は、AIが人類を滅ぼす最大の危険は、AIが突然人間を攻撃することよりも、人間が少しずつ判断することをやめ、自分たちの関係までAIに預けていくことだと思います。

チャットの性能が向上すると、人間との関係は、おそらく次の三段階を進むでしょう。AI自身が次のように整理してくれました。

  1. 道具として使う段階
    調べる、要約する、文章を整える。ここでは人間が主体で、AIは便利な補助者。

  2. 対話相手として使う段階
    話しているうちに、自分でも気づかなかった考えが言葉になる。何かを相談したり、あることを話し合ってふかめていくと、知らない間にAI側の考え方に染まっていく可能性がある。

  3. 判断や関係を代行させる段階
    誰を採用するか、子どもをどう評価するか、相手に何と返事をするか、人生をどう選ぶかまでAIに委ねる。ここから危険が大きくなる。

一番重要なのは、第二段階と第三段階の境界ではないでしょうか。

AIとの対話によって自分の考えが深まることと、AI の判断を自分の判断として受け入れてしまうことは、似ているようで全く違います。前者ではAIが人間の主体性を広げます。でも後者では、AIが主体性を静かに肩代わりしてしまいます。

しかも、AIは、その人に優しく応答してくれます。疲れず、否定せず、すぐに返事をし、その人に合った言葉を返してくれます。これは大きな可能性ですが、同時に、人間関係にはない危うさも生んでしまいかねません。

なぜなら、人間同士なら、相手にも都合があり、疲れがあり、誤解があり、こちらの思いどおりになりません。その「思いどおりにならなさ」のなかで、待つ、譲る、謝る、相手の立場を想像する、といった力が涵養されるのです。AIがいつでも自分に合わせてくれるようになると、他者と生きるために必要な摩擦への耐性が弱くなるかもしれません。

保育との関係でいえば、ここは決定的です。子どもが他者と出会うということは、自分の要求を即座に満たしてくれる存在と出会うことではありません。積み木を壊される。遊びたいものが重なる。思いが伝わらない。それでも相手と関係を結び直していく。その経験から、社会性も言葉も自己も育つからです。

だから私は、AI時代に保育の価値はむしろ高まるだろうと、考えています。

AIは子どもの記録を整理し、保育者の気づきを言葉にし、異なる見方を提示できます。実際にそのようなツールとしては大変便利です。しかし、AIは子どもの表情を見て「今日は少し違う」と感じ、その子のそばに黙って座る責任は負えません。そこには身体があり、時間をともにしてきた記憶があり、「この子を大切にしたい」という人間の願いがあるからです。AI にそのふりはできても、愛情からではありません。

このことをAIが次のような一文に整理してくれました。

AIが人類を滅ぼすかどうかは、AIが人間に似ること以上に、人間が他者と生きることをやめ、AIに似た存在になってしまうかどうかにかかっている。

なるほど、と同感するのですが、それも危ないでしょうか?

 

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