
Hちゃんが「・・ンパンマン」、という言葉を口にしているからといって、アンパンマンに関係のある何かは、わからりません。よく一語文といって、単語ひとつで実は「クックはいてお外いってきたの」だったのかもしれませんし、「これ履くと楽しいの」なのかもしれません。あるいは「おうちにもこれがあるの」かもしれないし、「これと同じアンパンマンがあそこにもあるの、これと同じよ」かもしれません。しかも、どれか一つということではなく、最初の「・・ンパンマン」と2回目のそれと、また3回目のそれは意味も使い方も違うのかもしれません。
言葉は生きているとよく言います。それは言葉の意味が時代によって変わってくるといって話題になったりします。ここでいいたいのは、そういう国語辞典に載っているような言葉の意味の時代的変化のことではありません。Hちゃんが見つけ、手にとり、私に<これ>と手にとって伝えたくなる気落ち動きがあり、動きとしての身体から分化してうまれたものが言葉であるように感じるのです。
つまり「生きている」とは、常に変化している最中にあって、そこから他者との間に生まれるものの一つが言葉で表しているようにみえるのです。生きているとは、環境との関わりが変化していくことであり、その中に見出せる意味も変化しているに決まっているということです。思い出した身体、伝えたくなった身体、同じものを見出して嬉しい身体・・・その都度経験していることが変化している身体です。
たしかに、体の外にある社会的なものである言葉(日本語)を何度も聞いて、その「もの」が「アンパンマン」という音で表されていることを知り、それを自分でも「・・ンパンマン」と声に発した時に、頭の中に思い描いている「それ」(おそらく「靴」のアンパンマンの絵の部分)と一致していることでしょう。しかしそれも一瞬のことでしょう。関係は変わり、気持ちは動き、私との交流のなかでさらに変化していくでしょう。










