
これまでの話を振り返ると、AIを使っていると、だんだん、知らないうちに自分の主体的な思考や判断や表現が毀損されていく、というプロセスを説明してきました。ところが、お気づきの方も多いでしょうが、この話、これまでも散々聞かされてきた話と、とてもよく似ています。
そうです、メディア一般のなかで語られてきたことと、そっくりなのです。私は昔メディアのなかで働いていたので、そのことはよくわかるのです。AIを待つまでもなく、新聞、ラジオ、映画、テレビ、インターネット、SNSで言われてきた危険性とそっくり同じではないでしょうか?
これはAIだけの問題ではなく、メディアが人間の注意・欲望・判断を、本人に気づかれないまま形づくる問題なのでした。
ただ、これまでのテレビや映画などの従来のメディアとAIには大きな違いがあります。それは付き合い方の違いです。
テレビや映画では、基本的に同じ作品が多くの人に提示されます。一人の受け手は影響されても、ほかの受け手は異なる受け取り方をすることが、時間的な差はあっても確認できます。距離を取って批評したり、他人と感想を比べたりできるのです。新聞の社説の読み比べ、テレビ時評、各種の論壇、などがメディアそのものに載っています。
ところがAIやSNSは、一人ひとりの反応を学びながら、その人に最も響く内容を返してくる。しかも、一見、私たちが主体性をもって、私たちが問いかけ、選択し、操作しているように見える。だから、
「自分で選んでいる」という感覚を残したまま、選び方そのものを誘導される
ことが起こり得るのです。
これは単純な「洗脳」よりも捉えにくいものです。本人は命令されているとは感じないし、禁止もされない。警鐘を鳴らす人がいても、聞こえてこない。むしろ選択肢は増えているように見えるでしょう。
しかし実際には、画面に出された選択肢や候補の中だけで選び、薦められた順番で見て、反応しやすい感情を繰り返し刺激されます。好みではない感情を引き起こしそうなものは、無意識のうちに見ない、選択しなくなります。いろいろなバイアスがかかっていることに、気づきにくくなります。
こうして選択の自由は残っていても、選択する自分が少しずつ設計されていくのです。
ちなみに、忘れてはならないのは、この主体的な思考や判断や表現というのは、私たちが保育の中で、あるいは日本の学校教育の中で育てている「資質・能力」の3本柱の一つ「思考力・判断力・表現力」と同じです。平たくいうと学校の通信簿の評価項目になっています。教育現場で子どもたちからAIを上手に使うためのポイントがここにあるのではないでしょうか?










