
AIとの付き合い方は道具として使っているときはいいけども、第2段階なら「主体性の拡張」として利用価値が高いのですが、だんだん、何かの判断まで任せるようになっていくと、第3段階の「主体性の代行」になっていってしまうのでは、というのが前回の話でした。
しかし、厄介なのは、その境目がはっきりしないことです。
たとえば、AIから「こんな見方もあります」と材料が提示されます。私が自分の経験と照らして「いや、そこは違う」「これは使える」と選び直したり、修正したりします。これは第2段階で、AIとの対話によって、私は自分の考えがより明確になっていると感じ、AIが有効だと肯定します。
一方で、
AIがそう言うなら、たぶん正しいだろう
うまくまとまっているから、このままでいいだろう
とだんだんなっていくと、自分の違和感を確かめなって、第3段階へ入り始めるかもしれません。これはまずいです。AIの文章は流暢なので、間違っていても「完成した考え」に見えやすいのです。ここが普通の道具より危険なところではなないでしょうか。
AIは、かなり自信たっぷりに、ほかの考えはないかのように肯定したり、場合によっては褒めてきたりして、知らないうちに、誘導されている可能性もあります。いや、こうじゃないか!と突っ込むと、あっさり修正したりします。このやりとりがないと、とっても危ういのです。
さらに、判断を任せる以前に、何を問題として考えるかまでAIに決めてもらう危険性も出てきそうです。人間が答えを手放すだけでなく、問いを立てる力まで弱くなるかもしれません。ワープロ(って、若い方には分からないそうです、ワードプロセッサー)が出てきた以降、漢字が書けなくなっていることを実感します。それと似ていますが、とても気づきにくい。
この違いは、子どもの主体性を育てる保育と、そうでない保育の違いとも重なる話なのです。
保育者が子どもの活動を豊かにする環境を用意し、言葉を添え、別の可能性に気づかせるのは「主体性の支援」です。しかし、大人が先回りして目標を決め、手順を示し、望ましい答えへ誘導すると「主体性の代行」になるからです。
AIとの関係もほぼ同じに思えてきます。この差をAIが表にしてくれました。
| 主体性を広げるAI | 主体性を代行するAI |
|---|---|
| 選択肢を増やす | 結論を決める |
| 問いを深める | 問いを奪う |
| 違う見方を示す | 正解らしいものを押し出す |
| 人間が経験と照合する | AIの流暢さを根拠にする |
| 最後は人間が引き受ける | 結果だけ人間が受け取る |
このように考えると「最終決定を人間がしたか」だけでは不十分なことがわかります。AIが示した案をそのまま選ぶだけなら、形式上は人間が決めても、実質的には代行されているかもしれません。
大事なのは、
AIとの対話を経たあと、自分の考えが以前よりよく見えるようになったか。それとも、自分で考えなくても済むようになったか。
という見分け方ではないでしょうか? 一度得た結論までのプロセスや思考の筋道を再現できるかどうか?子どもたちは「ごっこ遊び」で再現し、そのプロセスを見事に習得していきます。見ているだけでは身につかないのです。実際にやってみることが遊びなのです。
ここまでの話をAIに問うと、さらに次の問題があると、説明してくれました。
AIの性能がさらに上がり、その人らしい文章まで先回りして完璧に作れるようになるので、実はもっと注意が必要になります。便利さが増すほど、違和感を覚える機会が減っていくでしょう、というのです。
したがって未来の問題は、「AIを使うか、使わないか」ではなく、
AIに考えてもらうのか、AIと考えるのか
にあるのでは?と。
そして「AIと考える」ためには、ときどき立ち止まって、反論し、書き換え、現実の経験へ戻ることが必要になるのでしょう。
もう、お分かりだと思いますが、これは保育者の役割にも似ていますね。よい保育者は子どもに代わって生きるのではなく、子どもが自分で世界と関係を結ぶための応答的な環境になることです。AIは、その人の代わりに考える存在ではなく、あくまでも主体者の心が動き出すための環境の一部にとどまっていること、なんでしょうね。










