職員室だより9月号
2025/08/31
2025/08/31
2025/08/28
愛知・西尾市の「坊ちゃんカボチャ」と同じく豊橋市の梨「新高(にいたか)」のセットで850円。
PayPay購入は氏名確認のため当日、保育園でお願いします。
急に来れなくなったきはご連絡ください。保育園で保管しておきます。
*ちなみに同じ日の9月10日(水)は、フードコートの日です。

2025/08/28

ココアケーキ
2025/08/28

ケチャップライス
フライドチキン
マカロニサラダ
ブロッコリーの塩和え
コンソメスープ
オレンジ🍊
麦茶
2025/08/28
子どもたちの世界に触れて感じたこと
物事の見え方や受け止め方は、それぞれの人の価値観によって大きく変わります。
5歳児の女の子がお手伝いで乳児クラスに入っていた際、赤ちゃんがその子を噛んでしまう出来事がありました。
驚いたのは、それが起きたときには何も言わず、夕方になってから「ちょっと噛まれちゃった」と何気なく教えてくれたことです。私たち大人は、その場で気づけなかったことを反省するとともに、なぜ彼女はその瞬間に騒ぎ立てず、後になってさらりと話してくれたのかということに考えさせられました。
噛まれた跡はうっすら確認もできるかできないか、、、想像ですがそれなりの強さであったようです。それでも、その場では泣いたり大声を上げたりすることなく過ごしていました。大人の目線では、「かわいそう」「何でそんなことを」と思う方もいれば、「子どもだからそういうこともある」と受け止める方もいるでしょう。
しかし、ここで大事なのは、その5歳児の心のありようです。なぜ黙っていたのか、なぜ夕方に何気ない会話の中で伝えたのか。そこには「大したことないよ」「怪我なんてするものだよ」という、ある意味での強さや優しさが感じられました。
私たち大人は、つい「怪我=かわいそう」という価値観で見てしまいます。そして、そうならないように守りたいという思いも当然あります。ただ一方で、子どもは誰かを傷つけようと思って行動したわけではありませんし、やられた子も必ずしも心に深い傷を負ったわけではないかもしれません。子どもには適応する力があり、その中で人との関わりを学び、乗り越えていく力を持っています。
今回の出来事を通して、私は改めて「子どもの世界」について考えさせられました。大人が先回りして解決したり、過剰に守ろうとしすぎるのではなく、子ども同士のやりとりの中で培われる力を信じて、広く守っていくこと。それが保育の中で大切にしたい姿勢だと感じています。
2025/08/26

ふりかけおにぎり
牛乳
2025/08/26

冷やしうどん
納豆ボウル
バナナ
麦茶
2025/08/26
本日9月の献立表を配布いたしました。
また9月1日は防災の日です。園で保管している防災食を提供を予定しています。
何か気になる点ありましたらお気軽にお声がけください♪
2025/08/26
現在のような情報化社会になると、インターネットなどで知識は覚えなくてもすぐに手入るから、ただ知識を答えるための教育は変えなければならない、という主張をよく耳にするようになりました。ここでいう知識というのは、どうも、一旦加工処理された知識を指しているようです。

本やデジタル書籍など書き言葉や図や絵になったもの、紙の楽譜やレコーディングされたもの、そうしたいわば情報化されたもの全般を指しているようです。そうしたメディア化された情報としての知識は、確かに手に入りやすくなり、それを覚えておくような意味での「知識」はすぐに手に入るということはよくわかります。生成AIが生活の伴侶のようになってきた現在、知らないことは聞けば教えてくれます。
しかし日々子どもと接していると、それは非常に限られた情報としての知識にすぎない、ということがすぐにわかります。赤ちゃんから年長さんまで、ものを手に取って触り、時には口に入れたり、積み木を積んだり、絵や文字をかいたり、体を動かし跳んだり跳ねたり、友達と一緒にゲームとしたり何かを作り上げたり、公園や林で虫や草花に触れてみたり。
そうした体験からえるものは、すべて「知識」でもあるのです。身体の知覚と行為が盛んに行われている限り、そこには名付けられていない営みが厳然と起こっており、そこにはまだ名付けられていない「知識」が躍動しています。
それは子どもたちの遊びのプロセスをよく観察してみるとわかります。私たちが機能や目的や意味を見出して命名すると、まだ名付けられていなかった、つまり隠れていた情報から「知識」が生成しているという見方だってできるからです。公園である虫をみつけました。名前は分かりません。図鑑で調べてみました。すると「ハナムグリ」の仲間らしいということが「わかり」ます。
では、この体験のプロセスの、どこから「知識」というものが成立したということになるのでしょうか?まだはっきりと分類されていない新しい昆虫を発見したとしたら、それは名前がまだはっきりししないから、正しい知識ではない、などということはないでしょう。もしそうなら、それなら発明や発見は知識ではないことになってしまいます。
虫ではなくて、色水遊びの色だったらどうでしょうか?子どもたちは赤、とか青とかいいますが、どんな場合でも、ある二つが全く同じ色なんてありません。微妙に違うはずです。和名の色は自然からとった命名法によって、実にさまざまな色の名前をもっています。すると分類によって知識の量が変わってしまいます。それと同じことが細分化された学問や研究の知識は、だれも全体が見えないほど膨らんでしまいました。誰が知の巨人だかわかりません。きっとそいういう知識ならAGIがそうなるでしょう。
要するに五感をフルに使った体験がまずは非常に大切で、生きるために不可欠な体験をたくさんすることです。
(以下は保育士等の専門家向けの話です。)
それでは知識というのは言葉のような表象記号、コーディングされたものをさすのではなくて、保育にける知識とは身体的接地がある情報を大切にしているように思えます。その受け取っている経験をいかに大切にしていくか。それがいかに「資質・能力」の循環として、生成しているか。またそれが生きる力になっているか。そのなかで動いているものの一面が知識と呼んでいるものでもある、ということでしょう。
もっと言うと「知識」に限らず、資質・能力の説明の中に出てくるキーワードは、全てそうした経験の1部として動いているときに、初めて意味をなすようなものなのでしょう。この事は「子どもの姿」と言う表現になっていることとも関係があるはずです。
2025/08/25

バナナケーキ
牛乳