MENU CLOSE
TEL

2025年 4月

落ちている井形ブロックを拾いながら

2025/04/15

「そこで遊んでいると気にしなくて済むよね。とくに雑木林のようなところだと、時間になるまでギリギリ遊んでいても大丈夫だし・・」。

こんな会話がありました。さて、この気にしなくて済むよね、とは何を気にしなくて済むのだと思いますか? 答えは後片付けです。砂や石や水、あるいは枝や葉っぱや木の実を使って遊んだ後で、それを元の場所に戻すなどの「後片付け」はほとんどいりません。

それら「砂や石や水、あるいは枝や木の実などの自然のモノ」は、その属性によって、いろいろな遊びを誘発します。長い時間、その遊びを下支えする万能なツールたちです。しかもほぼタダで手に入り、子どもたちにしかその価値が見出せないほど、普段は見向きもされず、場合によっては清掃や伐採やごみのように扱われてしまいかねない代物たちです。

そう考え直してみたときに、ふと今朝、室内のあちこちに転がっていた井形ブロックを私が拾って箱に戻したことを思い出しました。・・こんなとろこにも、あ、あそこにも。「何かを作って遊んだあとの証拠だけど、まだ片付けることまではできないんだろう、しかたないか・・」。作ったもので何かを見立てたり、戦いあったり、投げたりしたかもしれません。そういう名付けようのない子どもの振る舞いには、名前がなかったり、あまり注意も向けられない、曖昧な動きの印象しか残さないような遊びです。もしかしたら、当て所もなくフラフラしているという見方をされてしまうような姿だったかもしれません。

でも、それが雑木林のような自然の中で、枝や棒などを振り回したり、地面に絵を描いたり、何本も組み上げたりして遊んでいたら、それは立派な自然保育だと、どこか安心してみているようなところはないでしょうか?ところが井形グロックが室内でころがっていると、その前に展開していた遊びまでが、否定的に見られかねません。その違いはどこからくるのでしょうか?

遊びの最中には、子どもが何か働きかけて、その対象が変化したり、思わぬ謎や問いを投げかけ返してくるような相互のやり取りが引き起こされています。応答的、あるいは対話的なことが、頻繁に起きています。対象がものであろうと、友達であろうと、先生や大人であろうと、その呼びかけられたり、呼びかけたりという相互作用が豊かに起きていることが、生き生きとした遊びだといえるでしょう。それこそ<主体的な活動>となっていくものでしょう。

井形ブロックでも、こことことを繋いだたら、こんな形になった、それにもっとこうしたらどうなるだろう?お、こうなった、じゃあ、こうしてみたらどうだろう、うん、なかなかいいぞ・・そういう一連の<気づき>と<思考>と、楽しいといった<心情>や、それならもっとこうしてみたいといった<意欲>が働いていて、いいかえると、そこにいわば課題解決プロセスがうまれいて、最初あるいは途中から「こうなったらいいな」という目的も生まれては、それがさらに更新されていきながら、次々と何かを作り上げていく過程がそこにはあります。

さらに、そうした過程は、ずっと続いているわけでもなく、ときにぶらぶらとあとどなく過ごす<空白>も豊かにあって、そのなにもしていない空白の方が、熱中している遊びの土壌のようにも思えます。その空白の時間や空間は、自然の中なら、それこそ自然なこととして受け止めてもらえるのに、都会というか現代社会の時計の刻み方のなかでは、もったいない、無駄な時間とみなされがちです。

だとしたら、自然の中で起きていることと室内遊びで起きていることの、その扱われ方の差がどこから生まれているのかに目を凝らしてみたい。生き生きと遊んでいる、その部分だけを取り出すことができるなら、大きな差はない気がします。もちろん室内と自然のなかでは、もっといろいろなことが違うのですけれども。ともあれ、遊び込んでいる豊かな活動を生み出している背景や空白のところとセットで捉えることが大事なのでしょう。そのことを確かめながら、大切なテーマの焦点を外さないようにしていきたいと思ったのでした。

 

4月15日昼食

2025/04/15

ごはん🍚

カレイの照り焼き🐟

キリボシ大根の旨煮

かぼちゃの味噌汁

オレンジ🍊

麦茶

子どもの姿の背景がみえてくること

2025/04/14

今朝の子どもの様子を先生と話し合っているうちに、子どもの主体性の話になりました。朝からベランダで遊んでいた子どものことについて、その経緯を知ると「なるほど!」と思ったからです。どうしてそこで先生と遊んでいるのかという経緯やそこに至るまでの「姿の背景」を知ることで、見えてくるのが<子どもの主体性>(あえてこの言葉を使うなら)というものだなあと感じたのです。この説明はちょっと伝わらないかもしれませんが、こんなことです。

主体性という概念は実は関係性の状態のようなもので、固定的な個人の能力や属性ではないのではないかと思いえます。確かに行為主体性の進化や発達が論じられているので、個人にも実態としてあるような気になるのですが、実際は主体である子どもがさまざまな要因の複雑な契機のなかで見せてくれるものであり、川田学さんがいうように「つながり」のなかで現れてくる関係の変容だと捉えた方が保育の実際にあうようなきがします。

また子どもがそのようにあるということは、子どもが最終的に一人で(自己)決定したことではなくて、何かを選択などして、たとえそのように見えたとしても、さまざまな要因との相互作用のつかのまの揺らぎのなかでの動的平衡状態のようなものにも見えてきます。こっちをやっていたかと思うと次はこうというように、変幻する流動体のなかに主体という焦点を探そうとしても、同定しにくいように感じます。

たとえば今朝、先生との「・・・それじゃあ、しらばらくベランダで絵本でも読んでみる?」という提案があったからこそ、その子はそこを選んだのであり、さらにその提案を生んだのも当の彼女の姿への配慮からだったわけで、さらに遡ればその姿になったのも、一緒に遊んでいた子どもとの積み木をめぐる遊びの展開のなかで生じたことがきっかけになっています。また話し合って決まったということが何かあったとしても、そのなかには子どもたちなりの主張や妥協や同意や諦めなどが渦巻いており、いろいろなことがあっての、その状態だからです。

子ども理解の背景をしるということは、その動的変化の隠れた要因がみえてくるようなものであり、そこにもう一つの太いラインがあったのかと気付きつつ、そこを辿り直すようなことが物語としてみえてくるという仕掛けになっているのかもしれません。

 

4月14日昼食

2025/04/14

ビビンバ丼

りんごとさつまいもの煮物🍎🍠

白菜のスープ

イチゴ🍓

麦茶

4月11日昼食

2025/04/11

麻婆豆腐丼

キュウリのゆかりあえ

わかめとコーンのスープ

バナナ🍌

麦茶

top