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2024年 3月

小学校を訪ねて(3)生活科と体育を参観する

2024/03/07

今日は中休みが始まる頃に小学校を訪問しました。担任の先生が1年生の教室に案内してくださり、授業で使った「てんつなぎ」というプリントを体験させてもらいました。

1から番号が振ってある黒い点を鉛筆で線を書いてつないでいくと、ある形になるというもの。先生が「すぐにできたねえ」と喜んでくれるとKさんもニッコリ。3時間目は生活科でした。

この時期の小学校では一年の振り返りをしています。今日見せていただいた授業では、「生かつかカード」というオリジナルの日記を用いて、今年の1年間を振り返っていました。

A4サイズぐらいの、絵と文字でその日の出来事を記録できるもので、先生が4月ごろは「絵だけだったけど、ひらがなが出てきて、だんだん増えてきて、この頃になると4行も書いているね」などと電子黒板に、ある子どものそれを大きく映し出して、一年を振り返っていました。記憶がよみがえるように思い出してから「自分で自分に手紙を書いてみよう」と展開していきました。

1年生は2クラスあり、もうひとクラスは体育館で体育でした。縄跳びでやっていて、前回し、後ろ回し、片足とび、大縄跳びなど、保育園でもやっているような活動でした。

保育園と違うのは、全員が縄跳びをしないといけないことで、その範囲の中で、何々跳びをしていいこと、何回跳ぶかの目的を持って挑戦していくような活動になっていました。

卒園児の他に、この小学校で開かれている活動を通じて知り合った友達がいたこともあり、見学を終えて「楽しかった」と。入学に向けて安心して迎えることができそうです。

3月7日昼食

2024/03/07

パン🍞

ポークケチャップ

マカロニサラダ🥗

ハクサイのスープ

バナナ🍌

バス遠足(都内周遊)

2024/03/07

昨日はバス遠足でした🚌

らんすいで小松川公園の予定でしたが、雨のため都内周遊に。わいわいさんも含め、選択で出かけました🎶

13名での出発です!

終始、ハイテンションな楽しそうな2人♡

ながせくんは高速道路でトラックやバスをぬかすたびに「やった〜!ぬかした〜!」「いけいけ〜!」と大盛り上がり😂みんなもつられて大盛り上がり!(笑)

ひまりちゃん・いっちゃんは赤ちゃんのお人形も一緒に出かけました..♡

なかよし わいわいさんコンビ♪

わい・らん・すい、みんなで出かけるときは大型バスなので、初めてのマイクロバスでした!靴を脱いでリラックスモード☺️♡

一番前の席でのんび〜り外を眺めるのぞみちゃん。

れおなちゃん・ゆうかちゃん・りょうちゃんも外の景色をじ〜っと見つめていました。

東京タワー・レインボーブリッジ・フジテレビ、スカイツリー、そして羽田空港の近くでは飛行機が見えたり、大きな船が見えたり、外の景色が次々に変わるのでくぎづけです✨

今年度はたくさんバスで色々な所に出かけたので、運転手さんも顔見知りの、これまで何回か運転してくださった方が運転をしてくださりました。

「前も運転してくれたよね〜!」と子どもたち。

とっても優しい方で、場所の色々な説明をしてくださり、みんなでワイワイたのしい車内🎶

途中、ゆうかちゃんクイズが始まったり・・・

自然とみんなで歌が始まったり・・・

途中、心地よくなってお昼寝をしていたけいじろうくん(笑)

1時間半程バスに揺られ、周遊を楽しみました〜!

なんだかまるで家族のような雰囲気の車内。💐

楽しそうな公園も発見!また計画立てて行きたいね〜とみんなで話をしていました🎶

 

「そうか面白い!」から「やばい!」まである学び

2024/03/06

何かを学ぶために、ある「空間」へ出かけるとします。あえて場所と言わず空間というのは、オンラインの場合もあるからです。そこでは、あるテーマについての情報がやりとりされることになります。その情報の中から、参加者がそれぞれにとって「そうか!」とか「なるほど!」とか、いろいろなこと「気づき」が起きているでしょう。


例えば「どう考えればいいんだろう?」と思っていたことに視界が開ける感じがあると、それは嬉しいものです。数学なら問題が解けたというアハ体験がありますが(実は私の場合は、ないことが多かった。ふ〜ん、そういうものか、の方が多い)、そういうのはともかく、保育の場合は、ちょっとそう事とは違う気がします。ずっと追っかけていくと、納得できる記述というか、説明に出会うことができると、まるで「雲がはれる」という言い方に近いことが起きます。そういう見方をしだしたら、そういう風にか見えなくなる、みたいかことに近いかもしれません。

そういう経験を研修報告で他の人たちに伝えることができるものでしょうか? それは決して不可能ではなく、あるまとまった量の知識をきちんと理解して、その長めの言葉で言い表された事柄を、事実と思えることと照らし合わせながら自分の文脈で並べ直して考え直してみる、といったことが必要になる気がします。何度もそれを頭の中で反芻するかのようなことなのですが、その上で保育の事例について、そのスポットライトを当ててみると、そういう理解の仕方がいいかもしれないという、保育を進める上での行動指針のようなことをイメージすることにつながっていきます。


保育をよくしていくには、どうしても、子どもの理解なり、関わり方なり、どんな活動をするかなりの判断に向かって、その事例に関して、いったん、ちゃんと立ち止まって振り返るという営みが不可欠でしょう。

振り返る中で、よく理解できていないことが見つかったりします。でも、それと同時に「じゃあ、これはどうなるのよ」も生まれてきます。そうやって保育の探究のテーマがまた見つかっていくのですが、それは会議などで話し合って出てくるというよりも、日々の保育の話し合いの中で展開されていることであって、無理やりこれでいいだろうと結論づけて疑問を残さないような進め方では、それ以降の展開の可能性が少ない気がします。変な言い方かもしれませんが、「ちゃんとわからないこと」がちゃんとあったほうが良いのです。

もうこんな歳にもなって(あるいは保育をこれだけ積み重ねてきていながら)「もっと早く知っていたら」とか「そういうことなら、これはどうなるの?」といったことが起きることもあって、恥ずかしさや悔しさを覚えることもあります。自分の不勉強を棚に上げて「そういうこと、早く言ってよ」と言いたくなることだってあります!まあ、結局は自分のせいなのですがね。そんなことをしていると、また調べたいことが増えてしまって困ってしまいます。でもそれは、楽しみでもあるのですが、締切がないので先延ばしになっていくことも多いのです。

一方で、そういうこととは別に、疑問などにも思ってもいなかったことが、「やばい、違ってた!」とか「まずいなあ、そうだったのかあ」みたいになることだってあります。そこまででなくても「その辺りは気をつけよう」とか「みんなに伝えなくちゃ」とか、修正や再確認などになります。こういうことは早く行動に移すことになります。

何かを学ぶということについて、もっと他の整理の仕方もあるのですが、何かの学びが「気づき」になるのは、それが「わかる」という経験だという言い方ができるのなら、すると、何か世界が開かれていくような感じがして、世界の見方が変わってくるようなことが面白いと思います。こういう楽しみは動物にもロボットにもないものでしょうけれど、人間の生きている世界の狭さであり広さなのかもしれません。

実験が遊びに乗っ取られていく体験

2024/03/05

自分(私)の「頭の硬さ」に気づかせる「子どもの遊び」。どんな時に自分の頭の硬さを感じるかというと、子どもが遊び始める姿を肯定できない心理の時です。期待している姿なら肯定できても、子どもが「面白い」と感じることに、そうか、そこが面白いんだ、と素直に受け止められない時があります。大抵は大人が色々用意して、そうなって欲しいと計画したりしている時ほど、その脱線にみえる姿を肯定できない傾向が自分の中にあるのに気づくのです。

先ほど、こんなことがありました。私が年長の子ども3人と坂道の勾配を変えたら車がどれくらい遠くまで走るか、ということをやってみました。これは完全に大人主導で子どもをつき従わせるような活動です。いわゆる子ども主体でもなんでもありません。でも、それを私が「実験」と称して、それらしい物を持ち出して、それらしいことをやるものですから、子どもたちには人気なのです。「何か面白いことが始まりそうだ!」という予感から、「ジッケン、やるやる!」と、意欲満々です。まあ、だまされているんです、最初は。

そこで今日は「坂道にいろんなものを転がして、どうなるかジッケンしてみたいんだけど」というと、やるやる!とワクワクしながら始まりました。ツルツル坂とガザガザ坂の滑り具合を比べようというわけです。板を乗せる柱のような土台(橋梁のようなもの)が4つあって、それ1個の高さに板を斜めに置いて、車をするすると走らせてどこまでいくか、止まったところに付箋をつけて、最長距離を目指します。

何回かやると、坂道のガードに擦れると止まる位置が短くなることに気づく子がいます。車を道の真ん中に置いてガードに擦らないように走らせると遠くまでいく。ただ、それに気づくことから、より遠くまで走らせよう!というようになるのかというと、なりませんでした。子どもの興味は「そっち」に収斂していくのではなく、拡散します。手を「そっと離す」のではなく、勢いをつけてバーっと走らせたり、急な坂上にして、地面にドンとぶつかって転がる車にゲラゲラ笑い出し、それが面白くなってきます。用意した車以外に、こっご遊び用の野菜やら、ドーナツやら電車やら、いろんなものを持ち込んで転がし始めます。

そうだよね、別に摩擦の違いで滑り具合が変わることなんかに興味を持続なんかできないよね。と私も頭を切り替えて、子どもの遊ぶままにしてあげます。ところが、ある子がドーナツのような輪になっている遊具を転がすと、面白い動きをしました。くるりと戻ってきたのです。そこでまた、一つギアが入ったように、次々と転がし始めます。やるたびに転がる軌跡が異なり、同じ動きをしません。集めては転がし、集めては転がし、何回も繰り返します。そうしているうちに椅子の脚の間を転がして通すことを目標にして、そこに「行った、行った」とか「だめ」といいながら、試すというか試行錯誤的な感じになってきます。

でもせっかくゲートのようになっているのに、今度はそこにその輪を並べて塞いだりします。もう何が面白いんだかよくわかりません。私が想像する面白さと彼が感じる面白さがちがっているのですが、私にはそうしてみたくなる感じに、ついていくことができません。たぶん多くの大人はそれをみても退屈でしょう。でも子どもはそれを試してみたい、どうなるかやってみたいのでしょう。あれだけ熱心に繰り返し遊ぶのですから、楽しいに違いないのです。

転がり方の変化に関心が移っていったのか、両手をずらしてはじくように回すことができたことが嬉しかったのか、わざわざ私を呼びに来て回して見せてくれます。

・・子どもの遊びというのはこんな感じではないでしょうか。こういうことを飽きるまでいろいろやってみる時間がとても大切なのでしょう。そういう中から、なにか輪郭のはっきりした活動に形になって、そこに何か意味を獲得しているように見えるときに大人がそこに注目して取り出して子どもの姿を描くということを、やっているのだろうと思います。

このように大人の誘導で始めた「遊びを装ったジッケン」は、途中から見事に子どもに乗っ取られて、本来の子どもの遊びになっていきました。これでいいのだと思います。そこにこれまで何度も書いてきた「遊び性」が垣間見られます。あっちにいったりこっちにいったりしているように見える中に、子どもなりの面白さの発見があって、そこに表れては消えていくような目的のようなものが見え隠れして、それもまたすぐに移ろいだり消えたりするように見えます。それでも面白さが断続的に表れています。

きっといろいろなことを試しつくしたあとで、またこの坂道を使って、何かを思い立ち、使い始めるかもしれません。このように考えると、昔私が小学生のころ、板や棒や鉄くずやドラム缶などが転がった空き地があって、そこでよく遊んでいたことを思い出すのですが、そこで何をしていたのか覚えていないのですが、遊び性について分析しているようなことが含まれていたのでしょうか。自分ではよく分かりませんが、そうだったのかもしれません。

3月5日昼食

2024/03/05

キツネうどん🦊

納豆ボウル

ヨーグルト🍓

麦茶

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