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2024年 4月

よく考えると「今」しかないんだよな、可能性の場は

2024/04/27

写真は散歩から帰ってきたとき。1歳児クラスの女の子が、椅子に座って自分の靴を脱ぎ、靴下もスポーンと逃げた瞬間の笑顔です。こういう瞬間に私は幸せを感じてしまいます。個人的な考えかもしれませんが。

ちょっとだけ真面目な話。

どうして私がいて、子どもがいて、保育があるのか。子育てをしている親なら誰でも思い当たる問いでしょう。私もそうでした。この3つの問いは全部クリアな答えがないのですが、それでも実際に存在し、過去からのつながりの中にあって今現在も動いている続いているもので、そのストリームの中に、私も子どもの保育者も巻き込まれています。その個体としての時々のそれぞれの「私」も「子ども」も「保育者」も個別の存在ですが、大きなストリームの中で現れたり消えてたりして、ずっと何かバトンを受け取り、また受け渡しています。

そのストリームは自然ともいのちとも言っていいようなものなのですが、ここの「私」や「子ども」や「保育者」などの個人にとっては「人生」です。とても不思議なことに、植物や動物と違って、生まれて死ぬまでの間、ただ何も考えない存在ではなく、意図的に何かをよりよくすることができる可能性をもった存在として、私たちは存在します。私にとっては、このことはどう考えても奇跡的なことに思えます。

さらに人類の歴史を振り返ってみると、それぞれの個別の存在が、植物や動物と違って、かけがえのない個、取り替えのきかない個人という重みがますます大きくなっていくストリームの中にありそうです。この流れはますます大きくなっているように思えるので、それに反するものは紆余曲折は経ながらも淘汰されていくことでしょう。その悲劇的な状況から少しでも免れていると思えるなら、そして先に生まれたものたちがそのことに気づいたら、個の人権や尊厳がしっかりと守られて発揮できるように、努める義務を感じます。その延長に保育があります。

そして子どもが生きている瞬間の連続の中に、過去の一切が流れ込んでいると思うと、先に生まれてきた私たち大人が子どもたちに渡していきたいものが何なのか、それをちゃんとしたいという思いになります。それができる場は、今という現在しか常になく、そこに私たちも集中できる力を整えておくようにしようと思うのでした。

遊びのなかに生まれる思いとすれ違いの行方

2024/04/25

ある子どもに「靴下がない」と相談をうけて探しているうちに「ブーメランをやりたい」と誘われて、運動ゾーンでしばらく遊んでいました。しばらくして屋上で遊び終わった子どもたちが一人二人と加わっていき、最後はワニのいるアマゾン川をターザンロープで飛び越えるという遊びに10数人の行列ができるサーキット運動になっていきました。

その約1時間ぐらいの間に、いろいろな面白い発見がありました。最初の数人の関わりのところまでを振り返ってみます。

年少のTAくんが一歳上の年中のNRさんとブランコを交代して遊ぶことが楽しいようで、3分の砂時計を待ちきれずにすぐにひっくり返して、すぐ交代するのです。

そして「一緒に乗ろう」「うん」と仲良く跨って左右に揺らして楽しみます。

ブーメランやネットやクライミングをひとしきり楽しみました。

その二人に、もう一人年中のAIさんが加わると、遊びと関係がダイナミックに変化します。

AIさんはブランコを乗った後、すぐにTAくんに替わってあげました。でもTAくんは次のNRさんの番なのですが「どうしようかな?」という風に考えています。

さっきまではすぐに交代していた間柄なのに、なぜか態度が変わりました。そしてAIさんに交代を促されると、口を膨らませて「いやだ」という意思表示を示します。

そこで面白いのですが、自分の番である当のNRさんは「もう一回やったら替わってね」と砂時計をひっくり返しました。もう一回、やっていいよ、というわけです。そこが3人の思いの中心点です。気持ちの折り合いが取れたバランス点がありました。年中さん2人が年少さんを大目に見てあげた、という格好ではあるのですが、そこにいたるのは、それまでのお互いのことについての経験からくる思いが、いろいろあってのことです。

そのやりとりの最中に、ブーメランを取りに戻ってきた男の子が「(自分のを)取った?」と意気込んで問い詰めます。見ていてハラハラするのですが「ただもっていただけ」と言われると何も疑いもせずに「守っていてくれたの?」と聞きなおすのです。すると「うん」と言われると、さっきまでプンプン気味に見えたのに、素直に「ありがとう」と言って、行ってしまいました。まるでそこに立ち込めていた気持ちのモヤモヤを突風が吹きさらってしまったような印象です。私は見ていて、おかしくなったのですが。

子どものそれぞれの「思い」は相手の間を飛び交い、受け止められて心地よいキャッチボールのように行き来したり、時には壁にあたって跳ね返されてきたり、あるいは戸惑って宙に浮いたりしています。

「そんなつもりじゃなくて、本当はこうなんだけど」という小さな思いの堆積物がそこら中に転がっています。その小さな思いの中身は、誰にもわからないのですが、子ども同士でそこを感じ合ってつながり合っているように見えます。こういう生の経験が貴重なんだろうなぁと感じるのです。

そして、3人がダイナミックに笑いながら、ブランコを楽しむのでした。

活動の展開には、同じことは二度と起きないようなものとして動いています。そこで生まれ続けていることは、切り離せない連続の中にあり、子どもたちは自分の中に生まれてくる感情や思いに立ち向かいながらそれを糧にして、たくましくなっていくように見えます。

4月25日 昼食

2024/04/25

コンソメピラフ

わかめスープ

お子様ワンプレート

(照り焼きチキン、コールスロー、ナポリタン)

グレープゼリー

 

選択という言葉遣いを選択しない

2024/04/24

ビッグワードを使うと微細な子どもの育ちを見損なうのではないか。このところ、この警戒感が保育を描くときの、私の通低音になっています。保育の目標や理念を語るときに自己決定、選択、参画、自己実現、愛着、信頼感などのキーワードを使うことがあります。でもそれを使うことは、そうなってほしい、そうでありたいということであって、実際にそうであるかは別問題でしょう。例えば最近ブームになっている主体性にしても、それを使えば何にでも当てはまるような言葉遣いにならないようにしたいと思っています。

今日の保育を振り返っていたら、先ほど主任とこんな話になりました。先生たちはそんな言葉を使うことはまずありません。きっとある意味で「そんな大それたこと!」と思うに違いないのです。保育を語るときに、子どもの姿をある概念でまとめたものをそのまま使うということはあまりないのです。その言葉で言い切ってしまうと、それは逆に何も言っていないように思えます。

そいえば、と思い出しました。22日にある学生さんが卒論のテーマとして睡眠の選択について見学に来られました。保育園、午睡、選択というキーワードでググると、うちの保育園がヒットしたそうです。そして、実情を説明すると「その日ごとに寝る寝ないを選ぶような選択ではないのですね」と理解してもらえ、ホッとしたのですが、逆に午睡は選択ですということで、こんな誤解を生んでしまうのだと反省しました。

一斉に同じことをさせることではなく、個別にその子に合った過ごし方や遊び方、寝ることも食べることもその子にあったようにすること、その子らしく過ごせるという趣旨なのですが、それを個人の「選択」というフレーズでまとめると、このような誤った理解を促してしまったようです。実際のところ、何にしても結果的には選択していると言えてしまいます。でもその内実は千差万別です。どのように最適なのか、あるいは個性化されているのか、と言ったあたり大事なのですよね。

子どもと揚げた鯉のぼり

2024/04/24

先週のことですが、晴れた金曜日に子どもたちと「鯉のぼり」を揚げました。

晴れ渡った青空の下にそよぐ鯉のぼり。

🎵おもしろそうに 泳いで、たかな?

しばらくは、天気によって揚げたり降ろしたりします。

神田川に泳がせる鯉のぼりをみんなで作ろう!4月23日から月末まで

2024/04/24

地域の町会青年部の方々からのお誘いで、「5月5日(日)」に保育園と和泉橋出張所にロープを張って「神田川にこいのぼりを泳がせよう」と活動へのお誘いを頂きました。

これに参加いたします。

こいのぼりは、親子の手形スタンプで鱗をデザインして、わらす組で空きスペースに色付けをして約2Mの大型こいのぼりを制作します。

本日4月23日(火)~4月31日(水) 夕方16:00~ 2階ランチルームにて行えますので、お時間のある時に立ち寄っていただき

手形を押していってください。

木場公園の大型遊具がリニューアル

2024/04/23

保育園は午前中に散歩に出かけることが多いのですが、今日、幼児はバスを使って木場公園まで出かけました。木場公園は広い原っぱの広場と、大型の遊具が配置された雑木林などがあるのですが、その遊具のリニューアルが済んで、ほとんどの遊具が新しいものに入れ替わっていました。

以下は幼児のドキュメンテーションでの説明です。写真はホームページのクラスブログにもの載せておきます。

「今日は木場公園の冒険広場で遊びました。しばらく工事中でしたが、今日はもう工事が終わっていて、遊具もほとんどが一新されていました。なので最初にみんなで遊具を見て回りましたが、みんな新しい遊具にウズウズ。我先にと駆け出していきました。日頃からも運動ゾーンや和泉公園で遊んでいるせいか、自分がこの遊具が出来るのかどうかの判断も含めて、みんな上手に遊びこなしていました。」

こうやって、いろんな公園に出かけるのですが、それぞれの公園にある遊具によって、その遊び方、関わり方が異なります。「我先にと駆け出して」いったように、やってみたいという意欲に溢れ、その遊びに取り組む過程で、いろんなことを学んでいます。面白そうな遊びを見つけてはいろんなことを感じたり、気づいたりして「どうやったらいいんだろう」と試したり工夫したりしていました。

どの公園にはこんな遊具があり、何ができるかという一覧を作成中です。

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