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2024年 2月

子どももコミュニティも成長し続ける

2024/02/29

(園だより3月号「巻頭言」より)

成長展が終わり、こうした行事を通じても1年間を振り返る機会になっています。開園してまる5年。17日の卒園式を迎える準備をしていると、卒園していく子どもたちが愛おしい。これくらい長い目でみた時に、手元に見える風景や個人の記憶に頼っても細かなことは思い出せません。でも、その当時の写真や記録を紐解くことで、今の育ちがはっきり見えてくるような感慨を味わっています。これは子どものそうですが、コミュニティにも言えるかもしれません。

まだ生まれて1歳の「しずくの会」の今後のことです。この会について、私はこう思っています。保育園の仲間も「数あるコミュニティの一つ」です。まずは今いるいないにかかわらず親子関係が誰にでもあって、それを軸に色々な家族があったり親戚があったりするはずです。また家族を離れて、友人や知り合いがいたり、会社があったり、学校があったりと、それぞれの人間関係があって、その役割やら機能やらは社会的、歴史的な文化的背景を持っています。

その一つに保育園という、子どもが同じ場を共有している場があり、そこに集う親たちが語り合い、何かを生み出していく場があっていいんじゃないか、それはきっかけとして無いよりはあった方がいいんじゃないか。それが自然に近い形で誕生した「しずくの会」ですが、そこに入ることが義務だったり、意味を感じないのにやらされる感があるような運営にはしなくない、と思っています。

この運営スタンスは、子どもにそうあって欲しいと願ってやっている保育テーマと似たところがあります。おそらく世界の教育はその方向をさし示しています。分断ではなく共生や協力、あるいはダイバシティやインクルージョンのテーマともつながります。それこそ民主主義のテーマと同じだと思っています。

大事にしたいのは、そこの当事者性、エイジェンシー(主体性)であり、他者と対話を閉ざさないことです。しんどくても話し合い、対話をやめない。でも決して傷つけない、暴力に訴えないということ。誤解や間違いやミスがあることもお互いに許しあい許容し合う関係を社会に増やしたいし、より良いものにしていくための提案やシェアリングにしていきたい。寛容性の高い世界を増やしていきたい。

それがいくら牧歌的で甘いと言われても、きっと続けていくことでしょう。

それが、そうではなくなってしまうこと、異なる他者を排除したり、話し合いにならないようなことが占領してしまうようなこと、あるいは孤立や格差の助長などが強くなってしまうなら、わざわざ維持する必要はないわけですよね。あるいは形骸化して有名無実のものになり、無理に形だけ維持するようなものになってしまうなら、しずくの会は、なくても構いません。さっさとやめた方がきっと別のものが芽を出しやすいでしょう。そんなふうに考えています。

でもきっと、子どもたちのために、あるいは私たちのために、きっとより良いことをしようとしたり、課題だと思うことを解決しようとしたりし出すことは、信頼関係が生まれてくれば、きっとなくならないので、そのためには何か動き始めると思います。しずくの会も、そうやってできたものであるし、やってきたことや、やろうとしていることがあるから、それはそれで動いていくことでしょう。

さて、この記録が来年、あるいは再来年、どんな風に再読されるのか、楽しみです。しずくの会がどうなっていくのか?

というわけで、子どもたちも卒園したらどういう風に育っていくのか、とっても楽しみです。成長展の毎年のファイルは、毎年の成長の記録でもあるのですが、積もるほどに見えてくる物語もあるでしょう。呼び起こされる記憶と共に今につながるストーリーが見えてくるかもしれません。ただ、これからもその日その日を大切に、その瞬間瞬間を大切にしていきたいものです。

【ちぐん組】2月生まれの誕生会

2024/02/29

2月生まれのお友だちの誕生会をしました。

主役はちっち組のりのちゃん、ぐんぐん組のりこちゃん、せいごくんです!

はじめに先生からのお楽しみでみんなの大好きな「こぐまちゃんのホットケーキ」を読みました。

そして絵本と同じようにみんなも大きな誕生日ケーキを作ることに!

絵本のように「材料はなあに?」と確認しながら入れて、腕を大きく回して「まぜまぜまぜ♪」

卵、砂糖、小麦粉、バター…たくさん材料を入れたらオーブンで焼きます♪

 

でもただ焼くだけではケーキは出来上がりません。みんなの素敵なおまじないが必要です。

「おいしくなーれ!おいしくなーれ!」

チン!

みんなのおまじないで大きな誕生日ケーキが出来上がりました♪大きなケーキに目を輝かせて手を伸ばしたり、「あむ!」と食べる真似をしてみたりしていた子どもたちです。

 

りこちゃん、せいごくん、りのちゃんお誕生日おめでとう♡

本日28日で4月の園児が確定しました

2024/02/28

本日2月28日、4月入園の2次募集の結果が公表されました。その結果、各クラスは次のようになります。

0歳 1歳 2歳 3歳 4歳 5歳

定員 6  7  8  10 10 10 合計51

4月 6  8  9   6 10  7 合計46

目標 7  8  9  10 11 10 合計55

その結果、5月は次のように募集しますので、ご希望の方は3月末までに千代田区へ応募ください。

0歳 1名

1歳 0名

2歳 0名

3歳 4名

4歳 1名

5歳 3名

合計 9名

*ただし、千代田区のホームページよりも多いクラスがありますが、受け入れますので応募してください。

6月の園児を募集中

2024/02/28

6月は次のように募集しますので、ご希望の方は千代田区へ応募ください。

申込の締め切りは4月30日(火)です。

0歳 1名

1歳 0名

2歳 1名

3歳 4名

4歳 1名

5歳 3名

合計 10名

*ただし、千代田区のホームページよりも多いクラスがありますが、受け入れますので応募してください。

たわいもないことを語り合える空間に

2024/02/27

どんな人にも「井戸端会議」と呼ばれるようなことがなされる場があると良さそうです。あるいは路地裏の「縁側」のような空間です。人と人がゆるやかに交わるようなところ。そこではたわいもないことが話されていて、話すことがまるで体の振る舞いのようなものとしているような言葉のやり取り。そうだね、そうかな、まあね、でもさ、それはいいね、それもいいじゃないの、またね・・・。

ぽんぽん、と肩を叩き合って、何を話すわけでもなく、それでもつながっていることを確認しているようなこと。そういうつながりは、意味がないように見えて大事なことかもしれないと思わせるものがあって、そう思ってしまうと、また意味か!となってしまうのですが、いやいや、そんな場所ではありません、と何気ない背景に引き下がっていくようなところです。そこにいるもいないも、その時の気分次第。でも顔を見せないと「最近顔を見ないね、どうしたんだろう」と心配してくれる人がいて、「ちょっとお裾分け」とか言って、惣菜やら貰い物やらを分け合ったりするようなところ。

保育園の中がそんな感じにならないかなあ。気兼ねのない空間。居心地のいい場所を一緒に作り出すような場所。今日は玄関の金魚の水槽を掃除しました。3人の年長さんが手伝ってくれました。優しく金魚を両手で救ってくれました。とても上手でした。保育園の玄関は金魚に餌をあげたりしながら、ちょっとした井戸端会議風の空間でもあります。

・・・今年の桜前線は早くきそうです。東京の開花予想は3月21日だそうで、卒園式の頃は桜の蕾が膨らんでいそう。暖かくなってきたら、公園でまた花見を兼ねたピクニックでもしましょうね。・・

先生は41人目の追究者

2024/02/26

子どもが何かをやっているとすると、それをみてつい大人の私たちは「こうしたらいいよ」と教えてしまいたくなります。今日もありました。なんという名前のおもちゃだったか、パッとわからないのですが、虹色のカラフルなスプリングになっていて、びよ〜んと伸びるやつ。それで遊んでいる子が何人かいたのですが、長〜く伸ばしたり、引っ張ったり、垂らしたり、その動きを楽しんでました。

みなさん、そんな姿をみると、「あれ」を見せてあげたくなりませんか?私はあのスプリングおもちゃ(と、ここでは呼部ことにしておきますが)をみると、階段を自分でビョン、ビョン、ビョンと尺取り虫のように降りていく動きを見せてあげたくなります。でも、そこをグッと堪えて「どう関わるのがいいんだろう」と思い直し、それを見せればきっと子どもたち自身で「それやりたい!」と、工夫し出すだろう。

試しに階段でやってみたのですが、幅がありすぎて、次の下へうまく跳ねません。同じステップのところに落ちて転げてしまいます。階段の幅を狭くするといいわけですが、子どもたちだけでは、それを思いつきそうもありません。さて、ここからどうするか。階段と階段の間にもうステップ作ればいいのですが、そこにちょうどいい大きさの箱か積み木を置いて見ればいいのですが、子どもと一緒に話しながら、そこを試してみるか、どういうふうに活動を繋げようか、そんなことを考えているうちに、今日は終わってしまいました。

ちょうど今読んでいる本に、先生は「41人目の追究者」とある。これは学校の40人学級を前提にした数ですが、私はスプリングおもちゃの発展系を探求中です。皆さんも、子どもと一緒に、1番最後についていく追究者になってみませんか?

(『「個別最適な学び」と、「協働的な学び」の一体的な充実を目指して』北大路書房より)

 

同期型から非同期型の生活や学びへ

2024/02/25

「今日話し合ったことを、確認のためにラインに挙げておきますね。確認して進めましょう」。こんなやりとりを経験している人は多いことでしょう。その場を共にするアナログな出会いや会合があって、さらにこれの議事録なり、メモなり、あるいは録画したものをネットで発信しておく。そうすることで、振り返ったり、修正しあったり、個々の記憶が外部記録に転換されて、「忘れる」ことがないうえに、いつでも思い出すことができるようになりました。

これと同じことを複数の相手と、複数のテーマで行っているのが、私たちの生活になってきました。家族のなかでもラインを使っているし、時には写真や動画が使われます。先日も旅先のオランダから友人のメッセージが届きました。もう一度見たい人は~で、も当たり前になったテレビ視聴、それぞれのペースで情報入手とコミュニケーションを、その要求や必要性が発生したタイミングで、つまりオンデマンドでやることが増えました。

今日の午前中の日曜開放でも、話し合ったことはオープンチャットなどを使って時間をかけて、共有することがしやすくなりました。このような同期したコミュニケーションから、非同期のコミュニケーションへの移行は、時間と場所を同じにしなければならなかった制約をほとんどなくしてきているように思います。

これと同じことを、令和の日本型教育、あるいは「個別最適な学びと協働的学び」のなかにみることができます。子どもたちは何を学ぶか、どういう方法で学ぶか、いつ学ぶか、そしてどこで学ぶかも個性化されていくでしょう。先生の方は、それに合わせて選択できる教材や教え方などの指導方法を個別化していくことになるでしょう。

私たちは、同期型から非同期型へ、時間も空間も超えて、しかも集い方やテーマもそれぞれに最適なものを自分で自己決定していく要素がふえてきていることを、生活の変化のなかにみることができます。

成長展〜「仲良し」にもいろんな種類がありましたね

2024/02/24

今日は子どもの育ちのある一面を、成長展という形でご覧いただきました。身長や体重、手足型、好きな遊びや公園、描いた絵などから、「自分の子どもはどれだろう」とクイズ形式で当ててもらうものでした。いかがでしたか? お子さんの特徴が現れていたのではないでしょうか?

行事の展示の特徴は、教育の「領域」と呼ばれている経験の中から、子どもの姿として現れているものを捉えて、これは誰だろう?と、自分お子さんだけで吐く、他のお子さんの特徴も見ていただけたのではないでしょうか。また4ヶ月に一度描いた「自由画」や「人物画」「ぬりえ」あるいは「シルエット」でのお話の1年間での変化もお伝えできたでしょうか。

調理さんからは、手作りふりかけのおにぎりを試食いただきました。このふりかけは子どもたちに人気があります。不足しがちなカルシウムもたっぷりで、ご家庭でもぜひやってみてください。

今年の私の「一推し」は、幼児で掲示した「人間関係の相関図」です。一人から矢印が3本出ていて、他の子につながっています。反対に3本が入ってきていて、合計6本の線で、つまり一人当たり6人とつながっています。その線ひとつずつに関係に意味が書かれているのですが、それが面白いと思います。

展示はひらがなで書いてありますが、ここでは漢字を使います。例えば3歳児クラスでは「なりきり世界の仲間」「憧れのお兄ちゃん」「ごっこ遊びのパートナー」「一緒にいると安心」「可愛がってくれるお兄ちゃん」「制作仲間」「ほっておけない弟」など。4歳児クラスでは「信頼があるお友達」「恋心」生き物探しの仲間」など。中には「親友」「恋心」などもあります。

5歳児なると「ダンス仲間」「運動への憧れ」「かっこいいところを見せたい」「大好きなお友達」。目を引いた関係は「癒しの存在」とか「初恋」というもありました。子ども同士の仲間の関係といっても、このように色々な関係があるのですが、それもある状況では「なりきり遊び仲間」でも、ある時は「ライバル心を燃やす相手」だったり、「頼りになる友達」だったりしているようです。

これは大人の場合どうなるのでしょう。ずいぶん昔から人間関係の希薄さといったことが問題になってきたわけですが、SNSの普及や経済のグローバル化、高度情報化社会、生成AIや人工知能など、そういったことを考えたときに、多様な人間関係の中で主体性をどのように育むか考えていきたいと思います。

子ともから招待される世界

2024/02/23

子どもの遊びは世界の可能性を開く扉である。無藤先生から教わっていることですが、そんな考え方を、子どもの姿から感じるようになりました。経験というのは世界との出会いなんだ、遊びがその経験になっていくんだ、それは面白そう、楽しそう、それなになに?みたいなことがきっかけになっていく。その経験の連なりを物語のように語れるとしたら、主人公の子どもの脇役は、環境の中からその子どもに呼びかけているものたちかもしれません。主人公がそれに応えて「そうだ、こうなったらいいな」という小さなゴールが現れてきて、そこに辿り着くために、脇役たちも応援しだします。みんなアクターなんですね。

主人公からすると、気づいたり、できたり、考えたり、試したり、工夫したり、表現したりしながら物語は進んでいきます。脇役からすると、合いの手を入れたり、こっちだよと誘導したり、壁になって立ち塞がったり「協力者があそこにいるよ」と教えてあげたり。大抵は知らんぷりしているのかもしれませんが・・・。物語の描き方は色々ありそうです。それでも、ゴールに向かって制御していくのは主人公の子どもですから、そこに自己コントロールの成長が見られます。どんどんそれが上手くなっていく。実行機能が発達していくように見えます。それを確かなものにしていくことが「自己発揮」としての子どもの人権を保障していくとになっていくのでしょう。そのように成長していく中に、私たちは子どもが主体的に何かをしている姿を見出して嬉しくなるのです。

もう一つ、何が嬉しいのかというと、子どもがそうなっていくこともそうですが、実はその姿に刺激を受けて、私たち大人も子どもが開こうとする世界に<招待されている>ことに気づくことがあります。昨日のダンスの姿を思い出してください。私は「怪獣の花唄」なんて全く知りませんでした。「おお、そこに面白さを感じるんだ!」とか「そこがいいのね!」や「ああ、そうしたいんだね!」「なになに、どうしたいの?」などと、子どもが不明瞭なものから明確なものまで、いろんなものやコトとの出会い、そのエンカウンターの「入り口」や「真っ最中」や「出口探し」に遭遇していることに、私たち大人も巻き込まれて、ある種の学びが起き始めているように思えます。

そうなってくると、私の「子ども理解」という理解の仕方が狭かったかもしれないと反省します。その定義にもう少し、相互的、動的な要素を加えたい。養成課程のように巨視的にみれば、子どもを対象として捉える大きな枠組みは仕方ないにしても、実際の活動を微視的に見ると、こちらがあたかも変化を受けない地点にいて、文字通り子どもをオブジェクト化してしまうことは到底無理で、主体同士の相互補完的で動的で流動的な営みと捉えたくなってきます。

社会が大きく変化しています。その変化の先を見通すことが大事な時代になってきました。その先の世界で必要になることを出会わせてあげたいのですが、それは個別テーマの内容というよりも、どんな内容であっても通用するコンピテンスになってくるらしいので、なおさら「遊び」を大切にしたいのです。

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